生目神社
生目神社(いきめじんじゃ)は、宮崎県宮崎市大字生目にある神社。亀井山と称する丘上に東面して鎮座し、「日向の生目様」と呼ばれる古くから眼病に霊験あらたかな神社との信仰を集める。旧社格は県社。 祭神品陀和気命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)と藤原景清公を主祭神に、彦火瓊々杵尊、彦火火出見尊、鵜茅葺不合尊の3柱を相殿に祀る。 由緒鎮座地周辺は豊前宇佐八幡宮の神領地である宮崎庄に含まれるため、荘園の鎮守として八幡神を勧請したのが創まりと考えられ[1]、『宇佐大鏡』に因れば天喜4年(1056年)には既に鎮座していたようであるが、元亀、天正の頃(16世紀末)、兵火に罹って記録類を焼失したために詳しい沿革は不明である[2]。なお、「生目」の神社名については一説に、源平合戦(治承・寿永の乱)の後に源頼朝に捕らわれた藤原景清が、源家の栄達を目にすることを厭うとともに源家への復讐を断念するために自身の両眼を抉ったところ、その志を賞した頼朝から日向勾当という勾当職と日向国の地300町(およそ3,600坪)を与えられたといい、当地へ下向した景清の没後にその(抉った)両眼を祀ったことによると伝えるが[1]、別に、古くからの眼病治癒の霊地であったために「生目(活目)八幡宮」と称したとも、景行天皇の熊襲征伐の途次、先帝である活目入彦五十狭茅尊(いきめいりひこいさちのみこと。垂仁天皇)の崩御日にその霊を祀る祭祀(先帝祭)を当地において営んだため、住民がこれを嘉して引き続き聖地として崇め、「活目八幡宮」と称えたともいう[3]。なお、藤原景清が祀られるに至った経緯については庄官等の宮崎庄の経営に関係した人物に偶々「悪七兵衛」か「景清」を名とする者がおり、これを著名な藤原景清に付会する説が起こったためと解する説もある[4]。 明治3年(1870年)に現在の社名に改め、同5年郷社に列し、翌6年県社に昇った。 信仰鎮座地の亀井山に湧く清水が6方へと流れ、亀の頭、尾、左右手足を髣髴とさせるが、かつては眼病を患う者がこの水を掬って目を濯ぐ習わしがあり、現在も眼疾治癒を望む参詣者はこの水で沸かした茶を飲む。戦前には熊本県の天草等の眼疾患者が農閑期を選んで参拝し、平癒祈願の成就を願ってこの水を汲みつつ1箇月、3箇月と逗留し、その間は筵を打つ等して生活費を稼いだという[5]。 また、元祿2年(1689年)3月3日に豊後国日田郡の郡代、池田季隆が参詣し「かげ清く照らす生目の鑑(かがみ)山、末の世までも曇らざりけり」と詠じたところ、「鑑山」を「水鑑」と改め、これを唱える事で霊験が得られようとの神託が下ったため、季隆により「かげ清く照らす生目の水鑑、末の世までも曇らざりけり」と改められ、爾来神詠歌として参詣者に唱えられることとなった[6]。 祭祀神事古くは3月と9月の17日が祭日とされたが[7]、現在は11月23日に例祭が斎行され、3月15日に近い前後の土曜日には里神楽祭があり、生目神楽が奉納される。 旧暦1月15日から17日にかけて行われる縁日祭は参道に屋台が立ち並び1年で一番賑う縁日であるが、宮崎平野に春をもたらす「春告げ祭り」であるとももされ、期間中は本殿において五穀豊穣等が祈願され、下述する大銀杏の下では神庭(こうにわ)が設えられて生目神楽数番が奉納される[8]。また、「おこし米」という名物も売られていた[6]。 神職高妻氏が代々の社家として勤める。同氏は景清の日向下向に従った家臣であったという[2]。 社殿本殿は文政10年(1827年)の造営にかかる桁行3間梁間2間の入母屋造平入銅板葺。拝殿は昭和9年(1934年)造営の入母屋造平入。 境内社末社が2社。下述黄心樹(おがたまのき)の樹下に八坂神社が、楠(くすのき)の樹下に若宮神社が鎮座する。若宮神社には「風邪の神」との信仰があり、節を抜いた篠竹を供えて無病息災を祈る風習がある[8]。 なお黄心樹や楠を始めとする境内社叢は、明治3年に樟材伐採の布令が出された折に代納として玄米3石8斗を供出することでその難を免れている[5]。 文化財重要文化財(国指定)
宮崎市指定
その他、境内に聳える銀杏は、幹周6.24メートル、樹高34メートルに及ぶ巨木で樹齢は300年とされ(1992年現在)、1992年(平成4年)3月に「みやざきの巨樹百選」に認定されている。 他の生目神社脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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