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渡瀬恒彦

わたせ つねひこ
渡瀬 恒彦
本名 渡瀬 恒彦[1](わたせ つねひこ)
生年月日 (1944-07-28) 1944年7月28日
没年月日 (2017-03-14) 2017年3月14日(72歳没)
出生地 日本の旗 日本 島根県能義郡安来町(現・安来市
出身地 日本の旗 日本 兵庫県淡路島
死没地 日本の旗 日本 東京都
職業 俳優歌手タレント
活動期間 1969年 - 2017年
活動内容 1969年:デビュー
1970年:『殺し屋人別帳
1973年:『仁義なき戦い
1976年:『狂った野獣
1978年:『皇帝のいない八月
1979年:『神様のくれた赤ん坊
1980年:『震える舌
1983年:『南極物語
1984年:『天城越え
1985年:『真田太平記
1985年:『刑事物語'85
1992年:『十津川警部シリーズ
1992年:『タクシードライバーの推理日誌
2002年:『おみやさん
2006年:『警視庁捜査一課9係
配偶者 大原麗子(1973年 - 1978年)
渡瀬い保(1979年 - 2017年)
著名な家族 渡哲也(兄)
渡瀬暁彦(長男)
事務所 東映マネージメント
主な作品
映画
仁義なき戦い』(1973年)
鉄砲玉の美学
暴走パニック 大激突
狂った野獣
事件
神様のくれた赤ん坊
震える舌
皇帝のいない八月
化石の荒野
南極物語
時代屋の女房
天城越え
首都消失
敦煌
一杯のかけそば
釣りキチ三平
テレビドラマ
大激闘マッドポリス'80』/『おしん
真田太平記』/『刑事物語'85』/『炎立つ
十津川警部シリーズ
タクシードライバーの推理日誌
おみやさん』シリーズ
警視庁捜査一課9係』シリーズ
ちりとてちん』/『そして誰もいなくなった
受賞
日本アカデミー賞
最優秀助演男優賞
事件』(1978年)
ブルーリボン賞
助演男優賞
事件』(1978年)
その他の賞
キネマ旬報賞
主演男優賞
神様のくれた赤ん坊』(1979年)
震える舌』(1980年)
助演男優賞
赤穂城断絶』(1978年)
事件』(1978年)
報知映画賞
助演男優賞
事件』(1978年)
皇帝のいない八月』(1978年)
赤穂城断絶』(1978年)
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渡瀬 恒彦(わたせ つねひこ、1944年昭和19年〉7月28日[2] - 2017年平成29年〉3月14日)は、日本俳優歌手タレント。本名同じ[1]

島根県能義郡安来町(現・安来市)生まれ、兵庫県淡路島育ち[2]東映マネージメント最終所属[3]。兄は俳優の渡哲也、長男はTBSディレクターの渡瀬暁彦。

来歴

生誕からデビューまで(1944年 - 1969年)

幼少期はガキ大将[4]だった。同じ小学校に通った同級生は「恒ちゃんは、ガキ大将で、けんかがものすごく強かった。友だちをいじめた相手に『何やってるんや』と向かっていき、兄貴肌で慕われていた」と懐かしんだ[5]。生誕した島根県から兵庫県津名郡淡路町(現・淡路市)に移り、三田学園中学校・高等学校卒業(6年間の寮生活)。中学の入学試験で「あの野郎2番の成績で入って来た」と兄・渡哲也が回想していたが中学三年で柔道黒帯[4][6]。高校時代は水泳部に所属。当時から同世代の女子に人気があり運動会には渡瀬目当ての女子学生が押しかけてきて大変だったという[7]。同級生の兵庫県議・野間洋志によると「常に夏目漱石などを読んでいた。難しい「乾坤一擲」などの言い回しや熟語を使い、国語の成績は270人中常に5番以内[8]」。また恩師によれば、当時から頭の回転が早くリーダーシップがあった[7]。また俳優かけだしの頃、三田学園の寮を何度か訪れ淡路の海を「昔はヤスで魚やサザエを取った」と懐かしんでいたという[9]。本人曰く高校在学中は新聞記者に憧れていた[10]

三田学園高等学校卒業後、中央大学慶應義塾大学法学部に現役合格するも早稲田大学は不合格だった。兄・渡哲也からは「慶應に行け」と言われたが、庭で不合格通知を見た母親が涙を流してるのを見て1浪を選択し尾崎士郎人生劇場」にも影響された[8]、早稲田大学の第一法学部に入学[10]。当時青山学院大学に通っていた兄・渡哲也との共同生活が始まる[8]。空手部に所属し、二段の腕前だった[11]。またボクシングもやっていた[4] という説もある。

しかし、本人曰く「いい加減な学生」[10] で、当時の大学は学生運動全盛期で講義もなければ卒論もない。新聞記者になりたい夢はいつしか消え[10]、作詞家になりたいと詩をたくさん書いていた時期もあった[8] が、大学在学中はやりたいことも見つからないまま、仲間たちといつも「何かねぇのかな」と語り合っていたという。だからこそ実社会に出たらハードな職種で、なおかつ時代の先端を行く仕事に着きたいと考えた結果、兄・渡哲也の「堅い道を進め」という助言もあって[12]卒業見込み[13]電通PRセンターに就職した[14]。しかし、研修期間1ヶ月で同社を辞め、先輩が作った青山の広告代理店「ジャパーク」に移る[6]。仕事は営業、渡瀬自身も会社員時代当時もよく働いていたと自負している。ジャパークで働いていた時、兄・渡哲也の知り合いが不動産屋を始めて急成長。宣伝スタッフがいないというので休日になると手伝いに行っていた。東映の傍系会社に電通博報堂CM映像を制作する東映CMが銀座にあり[14]、銀座を歩いていた渡瀬を見た同社の役員から[14]、「俳優にならないか?」と声をかけられる[14]。最初は躊躇するものの、ジャパークの社長に相談すると、「絶対マイナスにならないから」と当時東映企画製作本部長だった岡田茂に会うことを薦められる[14][15]。ジャパークの給料もよく[12]、仕事も面白くなって来たところで、映画にまるで興味もなく[12]、兄からは「芸能界は前近代的な職場だしラクじゃない。お前はふつうの堅い道を進んで欲しい」などと映画界入りに反対されていた[12][16][17]。自身も兄を東映に引き抜くための手段に使われているのではないかと懸念し[17]、100%断るつもりで岡田を訪問したところ[6][16][17]、「とにかく俺にまかせろ」などと岡田に口説かれた[12][16][14]。彼の人柄にすっかり魅了され、「こういう人がいる世界なら一緒に仕事をしたい。30まで人生預けてみよう。一発ためしにやってみるか」と即決で俳優転向を決めた[10][12][15][14][16][18][19]。岡田から「男が顔になってくるのは35歳だぞ。それからだからな」と言われた[20]。渡が芸名で活動しているのに対し、本名で活動し始めたのは、高倉健を意識した東映に「大倉純」という芸名を提案されたものの気に入らず、それなら本名の方が良いと申し出たことに由来している。当時入社6年目の東映宣伝部員・福永邦昭は岡田に呼ばれて、渡瀬と引き合わされ「しばらくお前に(渡瀬を)任せるから」と言われた[14]。福永と渡瀬はすぐに意気投合し、週1、2ペースで歌舞伎町の安キャバレー「チャイナタウン」で飲んだ[14]。渡瀬はさほど酒は強くなかったというが、渡瀬兄弟は仲が良く、当時、渡哲也と代々木のマンションに同居していて、歌舞伎町で飲んだ後は、代々木まで歩いて帰っていたという[14]。帰路の途中に渡瀬がいつも「地面を見つめて、歩くだけー。背中をまるめて、歩くだけー」と低音で歌を唄うので、福永は「いい歌だね。誰の曲?」と聞いたら渡瀬は「自分で作った」という[14]。肝心のサビがなかったため、福永が知り合いの作曲家に頼み、補作したものが渡瀬の主演第二作『監獄人別帳』に主題歌として採用され、「ごっかんブルース」のB面に渡瀬の作詞作曲クレジットで「俺は忘れもの」として収録されシングルも発売されている[14]

デビュー(1969年 - 1977年)

1970年1月31日(土曜日)、石井輝男監督の映画『殺し屋人別帳』の主役としてデビュー[16]する事になり、マスコミを集めてのデモンストレーションで大学時代の空手を見せて「兄貴には小さい頃から勉強でも喧嘩でも負けた事がない。今やっても負けませんよ。」既に日活のスターになっていた渡哲也へのライバル心を隠そうとはしなかった。外部から迎えた若手タレントで東映で主役デビューは大川橋蔵以来といわれた[6]。岡田から「やれ」の一言で、演技の勉強もなく京都に来て監督の石井と同じ部屋に泊まり、毎朝監督と一緒に起きて撮影所に行き、出番の有無に関わらず終わりまで撮影に付き合う毎日だった[12][18]。しかし、デビュー作の演技を渡瀬曰く「そりゃそうだ、昨日までは素人だったんだから」と開き直っても、根がマイナス思考のため、凄まじいまでの酷さとひどく落ち込み、間違った世界に来たのかと思ったが、悩む暇がないほど次から次へと仕事が舞い込んでいったという[10]。デビュー当時の渡瀬はやんちゃでとにかく熱く突っ走っていたと大勢の映画関係者が証言しているが、渡瀬と旧知の仲だった東映・奈村協もその1人。奈村は1972年、工藤栄一監督「忍法かげろう斬り」で身体を壊した兄・渡哲也の代役を任された時が初対面。東映京都撮影所駐車場で当時の愛車だったフェアレディ240Zを使ってスピンの練習をしていたり、当時東京から京都まで新幹線で3時間15分でかかっていたが自分なら車で新幹線より早く東京に着けると豪語していた[21] という。「現場では10代の新人でも70、80歳代のベテランでもみんな同じライバル」[10] という渡瀬にとって、錚々たる俳優の中で唯一競争できる要素が「アクション」だった[10]。人並外れた身体能力の高さから、当初は東映のアクションスターのホープとして期待された[19]

そんなやんちゃで熱い渡瀬を東映京都撮影所でも次第に認められ、中島貞夫工藤栄一深作欣二山下耕作といった監督を始めあらゆる人から「恒さん」と呼ばれるようになった。東映京都撮影所では若い人を通常「○○ちゃん」、「○○ぽん」と呼ぶため渡瀬の「恒さん」は別格だった[21]

中島貞夫は渡瀬が演技に開眼したのは『現代やくざ 血桜三兄弟』(1971年)における荒木一郎との出会いと話している[22]。ある三兄弟の末弟を演じた渡瀬が、もぐらと仇名される気弱な男を演じる荒木一郎と不思議な友情で結ばれるあるシーン。2人には長回しするからと事前に伝えてあったが、どちらが言い出したのか2人だけでリハーサルを行っていた。妙にウマも合ったのか、演技にはうるさい荒木の影響を受けて、それまでのただ生身をぶつけるような演技から変貌を遂げた[23]

また常に新しいことに挑戦しようとする気構えもあった。中島貞夫が東映での監督生活が10年近くが過ぎ、一部の映画作家には「低予算ながら企業の制約なしに好きな作品が撮影できる」理由で人気があったATG作品として『鉄砲玉の美学』(1973年)に挑戦してみることにした。それでも1000万という予算は苦しかった。撮影の費用は工夫を重ねて切り詰めたが、キャスト費をどう捻出したらよいか。そんな折だった。何処で聞きつけたのか渡瀬が中島に付きまとい始める。「ねぇ、何かやるんだって」「俺やるよ」。渡瀬は撮影所のスタッフルーム、中島の自宅にも押しかけて出演を直談判した[24]。作品の内容(従来の義理と人情ばかりの紋切り型ではない、いわゆる格好悪いヤクザを描こうとしていた[25])製作方式、そしてまともにギャラが払えぬと監督の中島が渡瀬が作品への出演を断念するように説得した。しかし渡瀬は諦めることなく「ギャラなんかどうでもいいから俺にやらせて」と猛烈に売り込み、中島が「じゃあついでにあんたの車をロケ地に持ってきて劇用車に使わせてくれるか」と渡瀬に伝えると渡瀬は「いいよ」と答えた[24]。撮影は宮崎県。宿はタイアップした都城市の旅館の大部屋でスタッフ・キャストの区別なく大部屋でゴロ寝。そこで10日あまり撮影で過ごし、中島はヤンチャで喧嘩早い渡瀬が細やかな気配りをしている様子を目の当たりにした[24][26]

1976年、『狂った野獣』では、中島が当初「まがりなりにもスターなんだから顔に怪我させられない」と横転するシーンのみスタントを使うことを主張するが、大型バス運転免許を運転教習所が驚くほどの早さで取得し、中島に「どうしても俺がやる、そのために免許を取ったんだ」と訴え、自らバスを運転し引っ繰り返す命がけの撮影に挑んだ[15][27](渡瀬の盟友であるピラニア軍団の面々もバスに同乗したが、本音は「横転するバスになんか乗りたくなかった。でも、世話になっている渡瀬の手前断れなかった[27]」という)。中島は当時の渡瀬を「飛び立つヘリコプターにぶら下がったり、運動神経がとにかく抜群だった[22]」と絶賛する。次第に中島は渡瀬が運転に関して自信過剰になっていると危惧する[27] が、渡瀬のアクションはどんどん過激になっていく。「暴走パニック大激突」(1976年)では200台もの車やバイクが衝突するクライマックスシーンの撮影時に出演者の中でたった1人ノースタントを志願。自らハンドルを握り、対向車に飛び込んだ[4]

現代やくざ 血桜三兄弟』(1971年)、高田宏治に「あんなハチャメチャなヒロポン中毒の殺人鬼は彼しかできない」と言わしめた[注釈 1]実録・私設銀座警察」(1973年)[8]小林旭と壮絶で悲劇的な兄弟の殺し合いを繰り広げた「唐獅子警察」(1974年)、梶芽衣子と日本版ボニー&クライドを演じた「ジーンズ・ブルース 明日なき無頼派」(1974年)などデビュー以来渡瀬は底辺でもがくアウトローを演じ続けてきた[22]。しかし、1977年『北陸代理戦争』の撮影中に運転ミスでオープンジープから投げ出されて、ジープに足を潰され生死の淵をさまよう大怪我を負い降板[27](代役は伊吹吾郎[28])。監督・深作欣二と脚本家・高田宏治は責任を感じ、渡瀬の病室を見舞った。麻酔が効いて眠り目が覚めるとその度に枕元に深作がいた。「こうなっちゃ仕方ないよ」と逆に深作と高田を慰めた[28] という。自分の人生を考えるというよりも、振り返る感覚もなく、ただ「久しぶりに何もない時間があった」[29] この時の大怪我が元でアクション俳優から性格俳優へと転向する[22]。渡瀬自身も後年「結果的には役の幅が広がった」と述懐した[21][19]

私生活では、三本目の映画『三匹の牝蜂』で共演した大原麗子と1973年に結婚したが[30]、1978年に離婚している[31]

成熟期(1978年 - 1991年)

2009年当時のインタビューで、東映以外の映画会社(松竹)初出演作になった1978年『事件』で、ブルーリボン賞日本アカデミー賞・キネマ旬報等助演男優賞を受賞したことが自分にとっての大きな転機になったと話している。しかし、その当時は実感も感慨もなかった[29]。同年、松竹映画「皇帝のいない八月」でも、狂気を湛えた自衛隊将校の反乱分子を演じた。1979年には松竹映画「震える舌」「神様のくれた赤ん坊」でキネマ旬報主演男優賞を受賞した[32]

小林信彦の小説『唐獅子株式会社』の映画化に乗り気で、小林が渡瀬の自宅まで出かけたことがあったが、松竹ではやくざ映画は不可能だったため、後年、小林は大変惜しいことをしたと述懐している[33]

NHKのテレビドラマ『おしん』では、並木浩太役として出演し、おしんの1918年米騒動当時、山形県酒田時代の初恋の相手でありながら、おしんの仕えたおかよ様との間で三角関係に置かれ、おかよ様が亡くなった後も、ひとりおしんを陰から見守り続け、おしんのスーパー店主としての1956年の再起を支援し、最後にはそれが息子の独善的な経営指針によって破綻していくまで、老女となったおしんを見守る男性役を務めた。

セーラー服と機関銃』では、現場入り朝9時から撮影開始 深夜0時の撮影終了まで薬師丸ひろ子へひたすら集中力を磨くために三國連太郎と共に繰り返し稽古をつけていた[34](2016年7月22日放映「スタジオパークからこんにちは」ゲスト薬師丸ひろ子より)という。また薬師丸が機関銃を撃つシーンでガラスが飛び散り顔を負傷した際、周囲は「すぐ治るよ」と楽観する中、渡瀬だけが「自分の娘だったらどうする」と薬師丸の怪我を心配した(セーラー服と機関銃 (映画)#薬師丸負傷参照)[注釈 2]

『南極物語』の大ヒット以降からテレビドラマに軸足を移すようになる。

  • 本人曰く、「昔は2クールが多かった。そうすると、最後まで脚本ができてないでしょう?当時はそれが嫌だったのを覚えている。後から思ったほど面白くならなかったなということもあった」[35] という。

1990年代、バスクリンCMに出た事が自身の幅を広げてくれたと2014年当時のインタビューで語っている。コミカルなCMソングと共にお風呂から勢いよく出てくる演出は、それまで銀幕のスターでシリアスな役どころが多かったが、子供から大人まで認知度をあげるきっかけになり、お客さんとの距離が近くなった[36] という。

円熟期(1992年 - 2014年)

存命中に本人の口から語られることはなかったが、ごく一部の人間のみが知る事実として、1994年に脳梗塞を発症し左手に軽い障害が残ったといわれ、それが従来の屈強なイメージと併せ人間味が溢れる類まれな存在感が出てきたきっかけと見る向きもある。脳梗塞がきっかけで「最高の仕事をするために」煙草をスッパリやめ、酒は適量なら血流にいいと言われる赤ワインだけにした。連日のように1時間歩き、趣味のカメラで道端の花を撮影していた姿が目撃されている[37]

この頃も『忠臣蔵外伝 四谷怪談』(1994年)などの映画にも出演していたが、1992年から主演を続けてきた「十津川警部シリーズ」や『タクシードライバーの推理日誌』など、次第にテレビドラマへの出演本数が多くなる。

  • 2015年まで計54作放映された『十津川警部』シリーズについて、当時のプロデューサー森下和清が渡瀬を「役者でありながらスタッフでもあった」と話す。現場では演出を仕切ることもあり、台本にもどんどん口を出した。スタッフをかわいがる一方、手を抜く人に対しては監督であっても言うことを聞かなかった。森下は「十津川を『自分の根幹』と言って大切にしていた。役というより、恒さんそのものだった」とコメントしている[38]

2002年からは、デビューした東映京都撮影所で制作された『おみやさん』がスタート。

  • 同作品スタート10年目でインタビューに応えている。その際、長く渡瀬の持ち役のひとつになった「十津川警部」と比較して『十津川は相手の反応は関係なく、直球を投げる。おみやさんは相手とのやりとりの中でカーブを投げられるんですね、優しいんだと思います』と人気の秘密を語った[39]
  • スタート当初から撮影場所も舞台も京都だったが、2011年の第8シリーズからはゲストの職業も和傘職人や桜守などより京都にこだわるようになり、京都をよく知る渡瀬が脚本中にあった「ベージュ色」という台詞を「亜麻色」という言い回しに変えるということもあった[39]

2007年度下期の連続テレビ小説ちりとてちん』では、かつて「上方落語界の四天王」と呼ばれた徒然亭草若を演じた。

  • 当時日課の散歩でも役作りのため落語を聞いていたが、1時間くらいで拒否反応が出る苦労を明かし「自分は落語とは程遠いところにおりました。しゃれとか、粋などとは無縁の生き方しかできませんので。落語も全く知らず、今は“落語が分かる気質”を演じることに七転八倒しています[40]」と今まで演じたことがない役柄に悪戦苦闘していたが、クランクアップには「自分にとってキツい仕事だったけど、この2、3日すごく気持ち解放されて、今では本当にやってよかった[41]」と達成感を得ている。

2006年からは、『警視庁捜査一課9係』シリーズがスタート。松本基弘プロデューサーによれば「『ER緊急救命室』みたいな群像劇をやってみたかった。『土曜ワイド劇場』の枠で『警視庁捜査一課強行七係』(2005年)を作ったが2時間ドラマでは群像劇にはならないことがわかった。その時上層部から『相棒』をやらない時期にやる新たな刑事ドラマを考えろと言われたので、七係の反省から『警視庁捜査一課9係』の企画を出しました。事件を解決するだけではなく、レギュラー刑事たちのプライベートも描く群像劇で、主人公が必ず中心になるわけではない、ある意味チャレンジの企画なんですがいいですか?と尋ねたら、「おもしろそうだからいいよ」と。昼行灯みたいな係長・加納倫太郎の立ち位置をよく理解して、企画に乗ってくださいました[42]

  • 9係まではリーダーシップあふれる刑事役が多かったが、「部下と距離を置き自分から捜査しないと思われ、人を使う」役柄は9係が初。2006年スタート当初は「実はこんなに出番の少ないドラマは、今までないんですよ。戦場に出ないでもいい勝ち方ってないのかな(笑)。やる限りは勝たないとね。どうやってみんなに働いてもらうかな[43]」と語っていたが、最終的に晩年では「代表作にしたい[33]」と公言するほど、愛着の深い作品になった。2009年当時のインタビューでは「スタート当初からこれは映画にできる」と思うほど刑事たちのキャラクターが生き生きと描かれ、刑事たちの個性だけでドラマができると9係を絶賛。その中で主演である自分は、「思い切ってキャラクターをぶつけあっている刑事たちを見守る」役割といい、「自分が演技しないで人がやるのを見ているのは、俳優としてはエネルギーがいる」というやりがいを明かした[44]
  • 2009年から2014年までの新・9係シリーズは夏の放映で、収録時期が渡瀬の誕生日と被っており、9係の順調な視聴率とあわせて出演者・スタッフから毎年盛大にお祝いしてもらっていた。渡瀬は「来るな、と思っていても嬉しいものですね」と喜んでいた[45]
  • 2015年の『9係 season10』放映に先駆けた取材では、毎年『9係』の前枠もしくは後枠で放映されている刑事ドラマシリーズ『相棒』について、「見なきゃいけないと思って見たことある。すごいなと思います」と語っていた[46]
  • スタート9年目当時、印象深い出来事として羽田美智子が「以前みんなで飲んだ時、渡瀬さんが『1人でも欠けたら、この作品は終わりにする』とおっしゃったんです」と語っていた[47]

2012年には『おみやさん』などの主演が認められ、第20回橋田賞を受賞。「褒められるとすごく元気が良くなります。僕は人を褒めるのが下手で、家でも仕事場でも人を褒めない。たまに褒めるのは犬だけ。これからは褒めるようにしたい」とコメントを残している[48]

晩年(2015年 - 2017年)

2015年8月2日に元妻である大原麗子の七回忌法要に参列したが[49]、この頃から体調が優れず同月末に精密検査を受けたところ、胆嚢癌と診断され余命1年の告知を受けた。都内の大学病院で5ヶ月間、手術ではなく抗癌剤の投与と放射線治療を受け、その後も入退院を繰り返しながら少しずつ仕事をこなしてきた。その間も高額な抗癌剤を試そうとしたり、がん専門病院で特別な放射線治療を受けようとしたが、転移のため叶わなかった[50]。自身が癌に侵されていることは、「あえて自分から話すことではないと思った[51]」という意向から2016年5月26日発売の「女性セブン」が報じるまでは公にされなかった。

『9係』プロデューサーの松本基弘は2016年のseason11終了後に渡瀬から癌であることを伝えられたが、松本は「治療すれば必ず良くなる」と信じていたという[52]。どんな体調が優れない時でも「俺はやる、とにかく現場に戻るんだ」という意欲を燃やし[53]、2016年に入ってからは血流を良くする気功術を導入した[50]

病魔が体を蝕み、2016年6月から8月に撮影された『おみやさんスペシャル2』では、親友の成瀬正孝が陣中見舞いに訪れた6月の時点では調子が悪いながら一緒に食事へ行くなどの気遣いを見せる余裕があったものの[54]、7月に入ると撮影を続行できるか一時検討されるまでに体調が悪化しており、妻が京都に駆けつけ献身的に支えたことで撮影を乗り切った[55]。松本によれば、『おみやさんスペシャル』の後に『タクシードライバーの推理日誌』の新作を撮影する予定であったが、体調を崩したことを考慮し延期して静養に努めたという[52]

11月には、遺作となったテレビ朝日系列のスペシャルドラマ『そして誰もいなくなった』(2017年3月25日・26日放送)への出演をプロデューサーの藤本一彦が渡瀬にオファーした。藤本によれば、最初は別の役を依頼するつもりだったが、準備稿を読んだ渡瀬が犯人の磐村兵庫役をやりたいと話した[52] という。

井上茂によれば、本人の直筆で毎年宛名から文面まで律儀に書かれていた年賀状が、2017年には「賀春 おめでとうと、ありがとうを申し上げます」と健筆で書かれていたという[56]。2016年までの年賀状とは文面が違うことに気づき、そこに込められた思いに井上は心がざわめいたと語っている[56]

『そして誰もいなくなった』の撮影は、2016年12月24日から2017年2月12日まで続いた[57]。クランクインで、「皆さんご存知だと思いますが、私は癌です。それでもこの役を全うしたい」と挨拶した[52]。撮影の際には風邪が蔓延しないように全員がマスクを着用、照明のセッティング待ちがないように照明なしのカメラを用意し、藤本は監督の和泉聖治へ出来るだけロケの回数を抑えるために工夫するよう指示した[52]。最後に磐村が犯行を告白する13分間の独白シーンは、渡瀬の負担にならないよう通常は現場で行うカット割りを和泉は事前に作業した[52]。移動は車椅子、撮影の合間には酸素吸入器の管を鼻から挿入し、命を削って容態が急変する前に撮影を終わらせた[50]

1月25日には、テレビ朝日でサンケイスポーツによる『警視庁捜査一課9係』の取材に応じた。その時も鼻には酸素吸入器をつけてはいたが口調や足取りはしっかりしていたという。その際、記者へ「『9係』は僕にとって『やらせてください!』と言いたい作品なんです」と力を込め、同作品への並々ならぬ思い入れと役者魂をぶつけた。だが記者からの「ライフワークにしたいか?」という質問にひと呼吸して「生きていれば…」と声を落としたという[51]。2月19日、『警視庁捜査一課9係 season12』の取材会に力強い足取りで現れ、12作目になる本作の見所を話した。その際、「体調は良くない。現状維持という感じ、食欲はないけど一生懸命食べている」と自身の体調を包み隠さず話し、会見に同席した羽田美智子が涙ながらに感謝を伝えると、渡瀬も背中を叩いて羽田へ感謝を伝えた[58]。ただ、取材会に際して公開された渡瀬は1月の取材時と比べても明らかに痩せており[59]、結果としてこの取材会が公の場で見せた最後の姿となった。

3月2日に行われた『そして誰もいなくなった』の制作会見は「スケジュールの都合[注釈 3]」により欠席となったが、共演者の津川雅彦[注釈 4]によれば共演者は癌に侵された渡瀬を気遣い労わったという。そんな渡瀬は誰よりも早く現場に入るため、つられて共演者も現場に入るのが早くなったというエピソードを明かした[60]

『9係』取材会直後の2月中旬に左肺の気胸を発症し、東京都内の病院に入院。3月に入って敗血症を併発するなど満身創痍の状態であったが、現場に戻る執念は衰えておらず、一般病棟にいる時から『警視庁捜査一課9係 season12』の台本を持ち込んで台詞を全て覚えていた[61]。3月13日にはマネージャーと打ち合わせをこなし、「今月から撮影だ、頑張ろう」と自らを鼓舞していたが[50]、翌3月14日に細菌が血液を通じて全身を巡り容態が急変。病院に駆け付けた妻と長男、長女の家族3人に看取られ、同日23時18分に胆嚢癌による多臓器不全のため死去した。72歳没[50][62]

没後

  • 2017年
    • 3月16日 所属事務所からFAXで死去を発表し、「最期まで幸せな俳優人生を全うできましたことを心より感謝申し上げます」とのコメントを発表した[63]。兄の渡哲也は弟の訃報に当たり、所属事務所を通じて「余命1年の告知を受けておりましたので、この日が来るのを覚悟はしていましたが、弟を失いました喪失感は何とも言葉になりません」と直筆のコメントを発表した[64]。40年来の親友だった江藤潤はがん闘病以降は「絶対人には弱みを見せない」渡瀬の美学を配慮し、お見舞いには一切行かなかった。江藤は弔問時に対面した渡瀬は、苦しみを見せずいつもの柔和な表情を浮かべていたという[65]
    • 3月17日 生前派手なことを嫌った本人と家族との希望により家族葬が営まれた。遺影は昨年1月、妻の誕生日に撮影された写真。渡瀬が好きなオンシジュームをメインとした花で棺を取り囲み、棺の中には家族からの手紙や家族写真が納められた。葬儀には家族の他に渡夫妻、親しい俳優仲間である片桐竜次不破万作中西良太木村栄成瀬正孝ら約30人が参列(舘ひろしは葬儀の前に線香をあげに訪れた)[61][66]。葬儀終了後、自宅に戻った渡哲也が取材に応じ、亡くなる間際まで出演へ執念を見せた「警視庁捜査一課9係 Season12」に出演できない無念を代弁した[67]
    • 3月18日 追悼特別番組として、テレビ朝日関東ローカル枠で「おみやさんスペシャル」(2016年10月15日放映)が再放送。同日夜、「SmaSTATION!!」生放送最後で渡瀬の話題になりゲスト出演した貫地谷しほりが、共演歴があった渡瀬の死を偲び涙で声を詰まらせた。そんな貫地谷にMC香取慎吾が「これから素敵なお芝居で返していかないとね」と声をかけた[68]。なお、貫地谷は翌19日に放送される予定だった「黒薔薇 刑事課強行犯係 神木恭子」に主演する予定だったが、当面の間放送が延期された。同日、「警視庁捜査一課9係」公式Twitterが渡瀬へ感謝と哀悼のツィートを投稿[69]
    • 3月19日 追悼特別番組として、テレビ朝日日曜洋画劇場枠で「タクシードライバーの推理日誌32」(2013年)が再放送。冒頭で大下容子アナウンサーが渡瀬の俳優人生を紹介、「数多くの忘れられない作品を残したくさんの人々に愛された渡瀬恒彦さんは、病と闘いながら最後まで俳優として命を燃やし続けました」と称えた[70]
    • 3月24日 テレビ朝日系のワイドショーで2月12日「そして誰もいなくなった」のクランクアップのシーンが紹介。渡瀬が最後のシーンを撮り終え、オールアップの声と同時に主演の仲間由紀恵は渡瀬へ花束を贈ると、渡瀬が椅子から立ち上がり仲間を抱きしめ、謝辞の言葉を送り、セットを去った[71]。同日、2014年に撮影された「判事失格!?弁護士夏目連太郎の逆転捜査」が金曜プレミアム枠で放映[72]。同日、東映東京撮影所マネージメント部が改めてコメントを発表。「治療と仕事の両立は大変だったが、皆様の暖かいご声援が渡瀬の力になっていました。最期まで幸せな俳優人生を全う出来ましたことを、スタッフ一同、心より感謝申し上げます」と全ての仕事を通じて出会ったキャスト、スタッフ、そしてファンに深い感謝を伝えた)[3]
    • 3月25日・3月26日 遺作「そして誰もいなくなった」放映。渡瀬演じた元東京地裁裁判長・磐村兵庫が「末期の肺がんだ。余命いくばくもない」と告白するなど、虚構と現実がひとつになった役柄にSNS上でも大反響が起きた[57]。視聴率は前編15.7%、後編13.1%(関東地区)。後編の瞬間最高視聴率は午後11時03分、渡瀬演じる磐村が遺された映像で自身が犯人であることを告白する、俳優人生「最後の見せ場」で14.5%を記録[73]
    • 3月27日 渡瀬が演じた十津川警部のファンの間では一番評価が高いと言われるシリーズ42作目「十津川警部シリーズ 九州ひなの国殺人ルート」(2009年9月本放送)を、TBSが追悼特別番組として月曜名作劇場枠で再放送。冒頭には追悼テロップと2017年から十津川警部を演じる内藤剛志がお悔やみの言葉を述べた[74]。視聴率は再放送にも関わらず12.2%(関東地区)[75]
    • 3月28日 テレビ朝日の定例会見に出席した早川洋会長兼CEOは、4月から放映される『警視庁捜査一課9係 Season12』について亡くなる寸前まで台本を手放さなかった渡瀬の気持ちを汲み主役不在で、5人のレギュラーに頑張ってもらい1クール放送する予定です」と明言。同時に「テレビ朝日のドラマ全体に貢献していただいた」と渡瀬の偉業を称えた[76]
    • 4月2日渡瀬が生前出演に執念を燃やした「警視庁捜査一課9係Season12」は、シーンによって渡瀬演じる加納倫太郎の過去映像を使用することで出演することが明らかになった。同時に加納倫太郎の設定が「内閣テロ対策室改造のためのアドバイザーを兼務しているため、9係を離れた」ことになっており、公式サイトには渡瀬の名前と役名は残したままになっている[77]
    • 4月12日「警視庁捜査一課9係Season12」初回放映日。冒頭から渡瀬演じる加納倫太郎が、里見浩太朗演じる警視総監の神田川宗次朗に呼び出される場面が放送された。加納は神田川から書類を受け取ると「失礼します」と頭を下げ、警視総監室から退室するシーンが流された。そして最後にこれまでの回想シーンが放送された[78]。SNS上では大きな反響があり、最後の回想で渡瀬のアクションシーンが流れると、個性的なメンバーをまとめてきた渡瀬の役の偉大さを称える声が上がった[79](なお、渡瀬の親友である成瀬正孝がゲスト出演をしている[80])。
    • 5月3日羽田美智子が渡瀬の没後初めてインタビューに応え、「『9係』はみんな続けたいと言っているが(視聴率的に)どうなるかわからない。特に今年は悔いがないようにやっている」と継続の意思を示唆。現場では渡瀬がいないにも関わらず、渡瀬がいた時同様撮影開始の30分前に現場入りをする習慣が続いていたり、スタジオのどこかに渡瀬がいるように羽田だけではなくみんなで感じながら撮影しているという[81]

人物

人柄

  • 遠縁にプロテニスプレイヤーの錦織圭がおり、渡・渡瀬兄弟の祖母と錦織の母方の曽祖父が兄弟であり、渡・渡瀬兄弟と錦織の母親ははとこにあたる[82]
    • 2008年、錦織の親戚筋から「石原プロモーション」渡宛てに簡単な家系図を添えて手紙が届いた。当時全く知らず驚いた渡は渡瀬にも連絡を取ったが、渡瀬も全く知らなかった[82] という。
    • また、錦織の母方の従兄弟[83]にあたるスリーピースバンドOmoinotakeのベース・福島智朗[84]TSKさんいん中央テレビのアナウンサー・福島睦も遠縁にあたる。
  • 渡瀬の人物像を語る上でしばしば登場するのが「芸能界一喧嘩が強い」という逸話である。渡瀬本人が腕っ節の強さを吹聴するようなことは無かったものの、彼を古くから知る芸能関係者らは「渡瀬さんが一番」と口を揃え、その強さを“伝説”として語り継いでいる[85]
  • 早稲田大学はドイツ語文法の1単位が取れず抹籍扱いになった(2002年『徹子の部屋』では自身の早稲田大学抹籍証明書をテレビで披露した)[13]
    • 息子が早稲田大学在籍時に大学側から「卒業生の先輩」として講演を依頼された。しかし、渡瀬はドイツ語の文法の単位が取れず卒業見込みのまま就職した自覚があったため、大学側に確認の問い合わせたところ「抹籍証明書」が戻ってきた[13]
    • 就職してからも3年間、あわせて7年間は大学に授業料を払っている。しかし、もう1年間は払わなかった。大学側からは創立100周年記念時計を送られきて「大学卒業したのかな」という認識があった。当時渡瀬は見込みが甘かったことを認めている[13]
  • 動物好きで有名[86]。特に犬が好き、理由は「朝起こされて、散歩に行って…と生活が律せられるのがいい[36]」『南極物語』で共演した犬のタロとジロを撮影休止のため帰国している間、監督に世話したいと自ら志願。撮影が終わってからも「厳しい環境には戻せない」と自宅に引き取った[87]。自宅近くの公園によく犬を連れて散歩しに来ている姿が目撃されていた[86]。25年以上に渡り、東映のカレンダーには自分の飼っている犬と2ショットで登場していた[88]
    • 「キネマ旬報」1982年10月下旬号で、「南極物語」の撮影を終えた当時の渡瀬をインタビューした映画評論家・野村正昭によれば映画の話になると「ええ」「そうですね」の連続で、全く話が弾まないがタロとジロを含めた犬の話になると「こんなつまらない話してもいいのかなぁ」といいながら、時間を遥かにオーバーしても話が止まらないくらいの「犬好き」だった[89]
  • 井ノ原快彦に1度家族写真を見せ、その際「良い写真は1時間ほどレンズ越しで家族を見つめていたら撮れる」と話していた。
  • 2度目の結婚相手となった妻との間に長男と長女をもうけている。
    • 自分の子供は芸能人にさせたくなかったという。渡瀬曰く「何しろ、この仕事は努力の方向性がわからない。野球なら素振りを100回より1000回やれば上達するかもしれないけど、セリフの練習がそうなるとは限りません」
    • 大変な子煩悩だった。「デパートに滑り台を買いに行ったところ見本品ひとつしかなかったために自作した」、「子供たちとシュノーケリングで海に潜っていた[13]」、「厳しく躾したつもりはないが、必ず週に1度は家族揃って食事を取るようにした[90]」、「休みの日はよくキャンプに行っていたよ。父親の威厳を示せる絶好のチャンスでした(笑)[90]」等良き父親であろうとしたことがうかがえる発言が残っている。
  • 長男・暁彦はTBS社員で、テレビドラマのディレクターを務めている。渡瀬は生前いつか息子の担当する作品に出演したいと語っていた[91](ただ息子が当時助監督だった『南極大陸』には出演できた[92])。
    • 暁彦は第3・6話で監督に携わる[93] 2017年4月期「小さな巨人」の宣伝インタビューに登場し父親に対する質問にも堂々と答えた[94]。(父親からの影響は?)「実は個性の話って、僕がこの仕事を始めて、おやじとご飯を食べたり酒を飲んだりして、よく言われたことなんです。おやじは『自分で出したいというのは個性ではなくて、組織のためや、誰かのためにという思いでやって、自分を殺して殺してやって、それでもにじみ出るものが個性だ』と。最近、ようやく分かってきたかも」[94]。(父親との思い出は?)「おやじは僕の関わった作品のすべてにリポート用紙3枚くらいで、細かく感想を書いてくるんですよ。おやじもこの世界、長いですし『あのシーンはお前のこだわりだろ』って、分かってもらえるんです。そういうところはうれしかったです。うまくいかなかったところも部分も見透かしてくるし…。正直、『何言ってんだよ』って思うことも6割くらいありましたけど(笑)、すごく勉強になりました。おやじにほめられたのは『大奥』第8話と『クロコーチ』初回ですね」[94]
  • 読書好き、本をゆっくり読む時間が好きだった。「映画化、ドラマ化できるかな?」と思いながら頭の中でキャスティングして楽しんでいた[36] という。

仕事に対する姿勢

  • デビュー直後に語った「スターに学問はいらない。映画は肉体労働だ」という哲学を貫き、俳優としての地位を築いた。劇団で修行したわけでないからと演技論を展開させることもなかった。事あるごとに「僕は脱サラ俳優だから」と口にしていた[4] という。
  • 渡瀬と共演経験がある荒木一郎によれば「渡瀬は本気でやるだけだからね。芝居っていうことより。土の中に埋まるなら、ほんとに土の中に埋まるし、酒飲んで吐くシーンなら自分でほんとに一所懸命飲んでゲーゲー吐く。芝居っていうことよりもそれをいかにほんとにやるか、みたいな奴[89]」と証言している[95]
  • 松方弘樹タモリ笑っていいとも!に出演した時に「渡瀬は一番後輩なのに先輩を説教するんですよ」と言い、泥酔した菅原文太は「みっともないから帰れ!」と一喝されたと言う。
  • 『タクシードライバーの推理日誌』、『警視庁捜査一課9係』等でプロデューサーとして渡瀬と仕事をしたテレビ朝日松本基弘は「最初の印象は怖かった。でも、それは仕事に対して真摯な姿勢で挑む理不尽な指示に対してとかスタッフに緊張感が無くなっているときに怒るというものだった。とにかく仕事が好きな方でした。僕も様々な企画を持ち込んで、たくさんご一緒させて頂いた。もちろん何でもいいわけではなくて、ご自身がしっかり内容を吟味して決められるので、こちらもしっかりとした企画を持っていきます。脚本に対するアイディアも的確ですし、そういった意味ではプロデューサー的な視点を持っている人でした。本当にテレビ朝日にとっても、自分にとっても宝物のような存在だったんです[42]
  • 2015年出版された「東映スピード・アクション浪漫アルバム」[96] で、1970年代の自分について杉作J太郎と対談という形式でインタビューに応えている。杉作は2002年と2004年、十津川警部シリーズで渡瀬と共演している(シーンは一緒ではなかった)。その際、数々の噂を知っていた杉作は気後れして当時話しかけられなかったが、実際インタビューで会うと「迫力のある方だったがやる気のない兄貴」という感じで例えると安田猛パームボールみたいに抜けた感じの渡瀬も随分見たとのこと[97]
  • スター然した扱いを苦手とした。プロデューサーが煙草に火をつけようとすると、自分でつけるからいいと断った場面を元付き人が目撃している[98]。また現場にたまにしか顔を出さないプロデューサーを非常に嫌ったという[98]
  • 渡瀬自身は「こういうイメージで俳優をやっていこう」という固定観念はなかった[36]
    • 2014年当時のインタビューでは「この人をこういう役で使ったら面白い」と考える専門家(プロデューサー)がいるから自分ではあまり考えません。でも、昔似たような役柄をやっていたから安全パイでキャスティングされることが昨今は多いため、自分の中で固まりかけているイメージを、別の角度から突っついて乗らせてくれるプロデューサーはいいですね[36] と話していた。
  • ベテランのスタッフや共演者には「恒さん」と親しまれ、何度も出演したテレビ朝日系『徹子の部屋』のように慣れた相手には「意外なエピソード」も明かしたが、通常の取材では「小難しい質問」になると顔をこわばらせてしまうところがあった[99]
  • 非常に勉強熱心として知られていた。現場にiPadを持ち込み、わからないことがあるとその場で調べていた[100]
  • 作品毎、最初の仕事は現場のスタッフの名前を覚えることだった。「ADさん!」というより「○○さん!」と呼ばれた方が気持ち良いだろうし、良い仕事してくれるだろうという信念を貫いた。渡瀬は東映の現場に50年弱いたが、昔は下積みやっている人間がどんどん偉くなっていくのを目の当たりにしたことが起因している[36] という。
  • 台詞の覚え方について「30歳ぐらいまでは台本台詞として覚えていた。しかし、2009年現在ではドラマのストーリーを読んで、2回目は演じる役になりきって読んで、3回目は衣装さんやメイクさんなどスタッフがどう動くか想像しながら読んでます。そうして何回か読むと、いつの間にか台詞を覚えてしまうんですよ」[101] とのこと。
  • 「(デビューして)何年経っても、撮影の前夜というのは心地良いものではないですよ..」ドラマでも映画でも撮影初日の前夜は期待や不安で眠れない