南北戦争の原因
![]() 南北戦争の原因(なんぼくせんそうのげんいん、英: Origins of the American Civil War)では、アメリカ合衆国のアンテベラム時代[注釈 1](南北戦争に至る時代)における奴隷制の複雑な問題、連邦主義に関わる矛盾する理解、政党政治、拡張主義、党派抗争、経済および近代化について詳述する。 概要米墨戦争の後、合衆国のまだ州に昇格していない領土・準州における奴隷制問題は1850年の妥協を生み出した。この妥協により、当面の政治的な危機は避けられたが、奴隷勢力[注釈 2]の問題を根本的に解決するものでは無かった。多くの北部人の中でも共和党の指導者は奴隷制を国の巨悪と考え、少数の南部大規模プランテーション所有者がその悪を拡げる目的で国の政治を牛耳っていると見なした。南部の者から見ると、北部は人口が増え、工業製品の生産高が急速に伸びているので、南部の相対的政治力が減退することを恐れていた。北部と南部は違う道を歩んでいたので、以前にワシントン大統領が辞任演説で警告していたように、各地域内では共有されているとしても、2つにはっきり分かれた地域がそれぞれ別の考え方を持つようになっていった。経済は北部が自由労働によって成り立っていたのに対し、南部では奴隷の労働に頼っていた。合衆国はメイソン=ディクソン線[注釈 3]によって明確に2つの地域に分かれた国であった。ニューイングランド、北東部、および中西部の経済は、家族によって運営される農園、製造業、鉱業、商業および運送業を基盤に急速に成長し、境界州以外では奴隷が居なくても人口がやはり急拡大していた。この人口拡大には高い出生率とヨーロッパからの移民が寄与していた。特にアイルランド人、イギリス人、ドイツ人、ポーランド人および北欧人の移民が多かった。南部は奴隷によって開拓されたプランテーションが支配的であり、急速な成長と言えばテキサス州のような南西部でおこっていた。ここの人口拡大はやはり高い出生率だったが、移民の数はそれ程多くは無かった。全体的にみれば、北部の人口拡大速度が南部を上回り、これが南部の考える連邦政府を抑え続けたいという願望を難しいものにしていた。南部は境界州を除いて都市や町がほとんどなく、製造業も無いに等しかった。奴隷所有者は政治や経済を引っ張っていたが、南部白人の3分の2は奴隷を所有せず、大抵は生活のための農業に留まっていた。政治的にそのような奴隷の非所有者が奴隷制のために戦うプランテーション所有者を支持するかというのが問題であった。 奴隷制は国のために望ましくないという議論が長く続いていた。北部諸州は1776年以降に奴隷制を廃止していた。国の団結を維持するために、政治家は奴隷制に反対するときも中庸的な姿勢となり、結果として1820年のミズーリ妥協や1850年の妥協という多くの妥協を生んだ。1840年以降、奴隷制度廃止論者達が奴隷制を社会悪以上のもの、道徳的誤りと非難した。1858年のリンカーンの演説では、「ばらばらになった家庭は立ち行かない」[注釈 4]と述べて、連合国家としての合衆国はすべて奴隷州になるか、あるいはすべて自由州になるかを選択すべきとした。国の政治でも悪意と敵意に満ちた党派的理論闘争が増加する中で、1850年代には古い政党政治が崩壊し、政治家達がさらに次の妥協に辿り着くのを妨げることになった。1854年にできたカンザス・ネブラスカ法は多くの北部人を激怒させた。1850年代は、南部に何もアピールしない最初の政党である共和党が勃興し、工業化された北部と農業の中西部が自由労働産業資本主義の経済理念に関わるようになってきた。1860年、リンカーンが大統領に選ばれ、リンカーン自身は奴隷を所有する家庭の娘と結婚していたが、奴隷所有者はリンカーンや連邦政府との関係を維持できなくなり、遂には合衆国から南部の脱退ということになった。 奴隷制度廃止運動![]() →詳細は「奴隷制度廃止運動」を参照
北部での反奴隷制運動は1830年代と1840年代に盛り上がった。この期間は北部の社会に急速な変革が起こった時期であり、社会的・政治的に改革主義が拡がった時期であった。奴隷制度廃止運動家を含むこの時代の多くの改革者は、労働者の生活様式や労働習慣を様々なやり方で変革しようとし、労働者が産業化、資本主義化した社会の要請に応える手助けをした。 反奴隷制運動は、当時の他の改革運動と同様に、第二次大覚醒の遺産によって影響された。これはこの新しい国において、アメリカ人としての経歴も比較的新しい個人の改革を強調する宗教復活の期間であった。時代の改革精神はしばしば相反する政治的目標のある様々な運動によって表現されたが、ほとんどの改革運動は規律、秩序および拘束を通じて人間性を変えていくという大覚醒の原則を強調することで共通の未来を描いていた。 「奴隷制度廃止運動家」には当時複数の意味があった。ウィリアム・ロイド・ガリソンの信奉者、ウェンデル・フィリップスやフレデリック・ダグラスなどは「奴隷制の即座の廃止」を要求したので、言葉通りの者であった。より実際的な集団はセオドア・ウェルドやアーサー・タッパン等であり、即時の行動を望むが長い中間過程を経て段階的に解放を進めていく方が良いとしていた。「反奴隷制論者」はジョン・クィンシー・アダムズであり、奴隷制を制限できることを行い、可能な場合は止めさせたが、如何なる奴隷制度廃止運動にも加わらなかった。例えば、1841年に合衆国最高裁判所で争われたアフリカ人奴隷の反乱、いわゆるアミスタッド号事件の公判にアダムズは出席し、奴隷達は解放されるべきと主張した[2]。南北戦争前の数年間、「反奴隷制論者」はリンカーンを初めとする北部の大多数を意味し、カンザス・ネブラスカ法や逃亡奴隷法という形での奴隷制自体とその影響の「拡大」に反対した。多くの南部人はガリソンの信奉者との区別もつかないままに、これらすべてを奴隷制度廃止運動家と呼んだ。歴史家のジェイムズ・マクファーソンは奴隷制度廃止運動家の深い信条を説明して次のように言った。「全ての人は神の前に平等である。黒人の魂は白人のそれと同じくらい貴重である。神の子供の一人として他の者を奴隷にすることは、たとえそれが憲法で是認されているとしても、高次の法を犯していることである。[3]」 ほとんどの奴隷制度廃止運動家、顕著な例はガリソンだが、ヤンキーのプロテスタントの理想である自己変革、産業、繁栄を強調することで、奴隷制を人の運命と労働の成果を制御できないものとして非難した。 最も熱心な奴隷制度廃止運動の一人、ウェンデル・フィリップスは奴隷勢力を攻撃し、合衆国の分裂を既に1845年に予感していた。
奴隷制度廃止運動家は奴隷制をアメリカの白人の自由に対する脅威としても攻撃した。自由は単純に拘束が無いこと以上のものであり、戦前の改革者は真に自由な人は自分に拘束を掛けられる人であるとした。1830年代と1840年代の反奴隷制度運動家にとって、自由労働の約束と社会的上昇志向(昇進の機会、財産所有の権利および自身の労働の制御)が、個人を変える中心概念であるとしていた。 キューバを奴隷州としてアメリカに併合しようという、いわゆるオステンド・マニフェスト、および1850年の逃亡奴隷法に関する議論で党派的な緊張関係が持続し、1850年代半ばから後半に掛けては西部の奴隷制問題が国の政治の中心課題となった。 北部の幾つかの集団の中で反奴隷制度感情は1850年の妥協以後に高まりを見せ、対して南部の者達は北部諸州にいる逃亡奴隷を追求することや、北部に何年も住んでいる自由アフリカ系アメリカ人を奴隷だと主張するようなことも始めた。一方、奴隷制度廃止運動家の中には法の執行を公然と妨げようとする者がいた。逃亡奴隷法の侵犯は公然と組織化して行われた。ボストン市は、そこから一人の逃亡奴隷も戻されることがなかったことを自慢していたが、市のエリート階層であるセオドア・パーカーなどが、1851年4月には暴動を起こして法の執行を阻止する動きに出た。大衆の抵抗という様相は市から市に拡がり、特に1851年のシラキュースの運動(この年遅くのジェリー救援事件で盛り上がった)と1854年の再度ボストンでの運動が有名だった。しかし、1820年のミズーリ妥協と同じような問題が復活するまで、この問題は危機とまでは至らなかった。新しい問題とは、西部準州に対する奴隷制の適用であった。 奴隷制の擁護論と反対論最も著名な奴隷制度廃止運動家であるウィリアム・ロイド・ガリソンは民主主義の成長を信じることで動機づけられていた。憲法には5分の3条項(第1条第2節第3目)や逃亡奴隷条項(第4条第2節第3項)があり、また大西洋奴隷貿易の20年間延長があったので、ガリソンは民衆の前で憲法の写しを焼き、憲法のことを「死との契約であり、地獄との同意だ」と言った[5]。1854年にガリソンは次のように言った。 この反対意見はアメリカ連合国副大統領になったアレクサンダー・スティーヴンズによってその「コーナーストーン演説」で表明された。
「自由の土地」運動![]() 1830年代と1840年代の改革者の仮説、趣旨、および文化的目的は1850年代の政治的および理論的混乱を予測させた。アイルランド人やドイツ人カトリック教徒の労働者階級が動きの元になって北部の多くのホイッグ党員を動かし、また民主党を動かした。自由黒人が増加することで白人労働者や農夫の労働機会が奪われるという恐れが強まり、北部の州の中には差別的な「黒人法」(英語: Black Codes)を採択するところがあった。 北西部では小作農が増加していたが、自由農民の数は依然として農業労働者や小作農の2倍であった。さらに工場生産の拡大は小規模の技能者や職人の経済的独立を脅かしていたものの、この地域の製造業は小さな町には大きくてもまだ小規模事業に集中していた。ほぼ間違いなく、社会的流動性は北部の都心部で始まったばかりであり、長い間暖められてきた労働機会、「正直な製造業」および「労苦」という考え方は、少なくとも自由労働の理論に尤もらしさを与える時期に近付いていた。 北部の田舎や小規模の町では、北部社会の絵姿(「自由労働」という考えで形作られていた)はかなりの程度現実味を帯びていた。交通手段や通信の発達によって、特に蒸気機関、鉄道およびテレグラフの導入で、南北戦争前の20年間、北西部の人口と経済が急速に成長していた。共和党の地盤となった小さな町や村は活発な成長のあらゆる兆候を示していた。アメリカの白人労働者は昇進の機会があり、自分の財産を所有でき、自分の労働を自己管理できる、そのような理想社会の考え方は小規模資本主義のものであった。多くの自由で土地を所有する者が、大平原では自由白人労働者の優位性を保証するために、黒人労働の仕組みや黒人開拓者(カリフォルニア州などでは中国人移民)が排除されるべきと要求した。 1847年のウィルモット条項に反対されたことで、「自由の土地」勢力を団結させることになった。翌年8月、バーンバーナーと呼ばれた急進的ニューヨーク民主党員、自由党員、および反奴隷制のホイッグ党員がニューヨーク州バッファローで会議を開き、自由土地党を結成した。この党は元大統領のマーティン・ヴァン・ビューレンとチャールズ・フランシス・アダムズ・シニアをそれぞれ大統領と副大統領候補とした。自由土地党はオレゴンやメキシコから得た領土のような奴隷制の無い領土に奴隷制を拡げることに反対した。 北部と南部の労働システムの基本的な違いに奴隷制における立場を関連づけ、この違いを特徴付ける文化と理論の役割を強調したのが、エリック・フォーナーの著書「自由の土地、自由労働、自由人」(1970年)であり、チャールズ・ベアード(1930年代の指導的歴史家)の経済決定論を凌ぐものであった。フォーナーは奴隷制に反対する北部にとって自由労働理論の重要性を強調し、奴隷制度廃止運動家の道徳的関心が北部では必ずしも支配的な感情ではなかったと指摘した。多くの北部人(リンカーンを含む)は、北部に黒人労働力が拡がって、自由白人労働者の立場を脅かす恐れがあったことにもよって奴隷制に反対した。この意味では、共和党員と奴隷制度廃止運動家は「自由労働」に広く関わることで北部の力強い感情に訴えることができた。「奴隷勢力」という考え方は、南部の黒人奴隷の誓約に基づく議論よりもはるかに北部の自己利益に訴える力があった。1830年代から1840年代にかけての自由労働思想は北部社会の変化に依存していたが、それが政治に入ってくるには大衆民主主義が起こるのを待たねばならず、そのためには広範囲におよぶ社会的変化が必要であった。その機会は、長期間にわたって地域間の対立を抑えてきた伝統的2大政党制の崩壊した1850年代半ばにやってきた。 党派間の緊張と民衆政治の出現自由人の叫びが聞こえた。黒人の自由拡大のためではなく、白人の自由保護のためだ。
1850年代の政治家達は1820年代と1850年代における政党間闘争を抑圧した伝統が拘束する社会で行動した。その中でも最も重要なことは2大政党制を安定して維持することだった。その伝統が民衆民主主義の北部と南部で急速に拡大するにつれ浸食されていった。それは大衆政党が予測できなかった程度まで投票者の参加を活性化した時代であり、政治がアメリカ大衆文化の基本的構成要素となった時であった。平均的アメリカ人にとって1850年代は今日よりも政治参加が大きな関心となったことに歴史家も同意している。政治はその機能の一つであり、大衆娯楽の一形態であり、応酬のある見せ物であり、パレード(お祭り)であり、さらに彩りのある個性であった。さらに言えば指導的な政治家はしばしば大衆の興味、願望および価値観を集める焦点として活動した。 例えば歴史家のアラン・ネビンスは1856年の政治集会は2万人から5万人までの男女の参加者があったと書いている。1860年までに投票率は84%と高くなった。1854年から1856年に過剰なまでに新しい政党が現れた。共和党、人民の党、反ネブラスカン、連合主義者、ノウ・ナッシング(カトリック・移民排斥主義者)、ノウ・サムシングズ(反奴隷制・移民排斥主義者)、メイン・ローイッツ、テンペランス・メン、ラム民主党、シルバーグレイ・ホイッグ、ヒンズー、ハードシェル民主党、ソフトシェルズ、ハーフシェルズおよびアドプテッド・シティズンズであった。1858年までにこれらのほとんどが消失し、政治は4つの方向に分かれた。共和党は北部の大半を制したが、少数派でも強い民主党がいた。民主党は北部と南部で分裂し、1860年の大統領選には2人の候補者を立てた。南部の非民主党は異なる連衡を試み、多くの者は1860年には憲法同盟党を支持した。 南部諸州の多くは1851年に憲法会議を開催し、無効化と脱退の問題を論じた。サウスカロライナ州は例外で、その会議の投票には「脱退なし」という選択肢が無く、「他の州との協同なしで脱退無し」があった。他の州の会議では連合主義者が支配的であり、脱退案を投票で退けた。 南部の近代化に対する恐怖アラン・ネビンスは、南北戦争が「抑えられない」紛争であったと指摘した。ネビンスは道徳的、文化的、社会的、理論的および経済的問題を強調する、競合する証言を総合的に扱った。そうすることでネビンスは歴史に関する議論を社会と文化の要素に置き直した。南部と北部は急速に異なる民衆になっていったと指摘したが、これは歴史家のアベリー・クラバンも指摘するところだった。この文化的違いの根源には、奴隷制の問題があるが、地域の基本的な仮定、趣旨および文化的目的は他の方法でも分化しつつあった。より具体的に言えば、北部は南部を恐れさせるくらい急速に近代化していた。歴史家のジェイムズ・マクファーソンは次のように説明している[8]。
ハリー・L・ワトソンは戦前の南部社会、経済および政治の歴史を研究し纏めた。ワトソンの見方では、自己満足のヨーマン(自作農民)が、市場経済の推進者に政治的な影響力が加わることを容認したことで、「自分達の変化と協業した」。その結果としての「疑いと憤懣」が、南部の権利と自由が黒人共和主義によって脅威を与えられているという議論に肥沃な土壌を与えた[9]。 J・ミルズ・ソーントン3世はアラバマ州の平均的白人の見解を説明した。ソーントンは、アラバマが1860年のはるか以前に厳しい危機に見舞われていたと強調している。共和制の価値観に表される自由、平等および自治という原則に深く囚われていたものが、特に1850年代に容赦ない関連市場の拡大と商業的農業によって脅威に曝されているように見えた。アラバマの人々はかくして、リンカーンが選ばれることが最悪の事態と判断し信じる用意が出来ていた[10]。 西部の奴隷制領土の獲得1850年代に、1820年のミズーリ妥協に遡って生じていたのと同じ問題により、党派間の緊張関係が復活した。すなわち新しい領土における奴隷制であった。北部の者と南部の者はマニフェスト・デスティニーを異なる方法で定義するようになり、結合力としてのナショナリズムを蝕んでいた。 米墨戦争の後の獲得領土に対する議論の結果、1850年の妥協は生まれた。これには逃亡奴隷法の強制に関する規定もあり、北部では一連の小さな地域的エピソードを生み奴隷制に関する関心を上げた。 カンザス・ネブラスカ法→詳細は「カンザス・ネブラスカ法」を参照
ほとんどの人はこの1850年妥協で領土問題が終わったと考えたが、1854年にスティーブン・ダグラスが民主主義の名のもとに問題を再燃させた。ダグラスはカンザス・ネブラスカ法を上程し、開拓者のために質の高い農業用地を解放しようとした。ダグラスはシカゴの出身であり、シカゴからカンザスやネブラスカに鉄道を敷くことに特に関心があったが、鉄道が論争点ではなかった。より重要なことはダグラスが草の根民主主義を信奉していたことであり、実際にその地に入植した者達が奴隷制を採用するか否かを決めればよいのであって、他の州の政治家がとやかく言うことではないと考えた。ダグラスの法案は領土議会を通じた住民主権で「奴隷制に関するすべての問題」を決めるべきであるとし、結果的にミズーリ妥協を実質的に撤廃しようとしていた。この法案に対して起こった民衆の反応は、北部諸州での嵐のような抗議であった。それはミズーリ妥協を撤廃する動きとして認識された。しかし、法案の提出後最初の1ヶ月の民衆の反応は事態の重大性を一般に伝えることができなかった。北部の新聞が当初この問題を無視していたので、共和党の指導者は民衆の反応の欠如を後悔していた。 結果的に民衆の反応は起こったが、指導者はそれを誘発する必要があった。サーモン・チェイスの「独立した民主主義者の訴え」が世論を立ち上がらせるために強く働いた。ニューヨークではウィリアム・スワードが取り上げ、他の誰も自発的には動かなかったので、自らネブラスカ法案に反対する集会を組織した。「ナショナル・エラ」、「ニューヨーク・トリビューン」および地方の自由土地新聞などの報道機関が法案を非難した。1858年のリンカーンとダグラスの討論は、奴隷制拡張問題に国民の関心を惹き付けることになった。 共和党の設立北部の者達は北部の社会が南部のものよりも優れていると考え、南部が現在の境界を越えて奴隷の力を拡げようという野心を持っていると徐々に確信するようになり、紛争もあり得るという見解になりつつあった。しかし紛争は共和党の支配的立場を必要とした。共和党は辺境での「自由土地」を人気を呼ぶ感情的な問題として政治活動を行い、結成後わずか6年でホワイトハウス(大統領)を掴んだ。 共和党はカンザス・ネブラスカ法の立法化に関する議論の中で成長した。カンザス・ネブラスカ法に対する北部の反応が起こると、その指導者は新たな政治的組織を作るように動いた。ヘンリー・ウィルソンは、ホイッグ党が既に死んでいると宣言し、それを蘇らせる如何なる動きにも反対すると誓った。「ニューヨーク・トリビューン」のホレイス・グリーンリーは、新しい北部の政党の結成を要求し、ベンジャミン・ウェイド、サーモン・P・チェイス、チャールズ・サムナーなどがネブラスカ法案に反対する同盟について語るようになった。「ニューヨーク・トリビューン」のガマリエル・ベイリーは5月に反奴隷制側のホイッグ党議員と民主党議員の党員集会の招集に動いた。 集会は1854年2月28日にウィスコンシン州リポンの会衆派教会で開催され、ネブラスカ法案に反対する30人程の者が新しい政党の結成を要求し、党名には「共和党」が最も適当であると提案した(これはその動機を独立宣言に結びつけるためであった)。これらの提案者が1854年の夏に多くの北部諸州で共和党を結成するための指導的な役割を演じた。保守的および中道的な者達は単にミズーリ妥協を回復するか奴隷制の拡大を禁じるかを要求するだけで満足していたが、改革派は逃亡奴隷法の撤廃と、奴隷制が存在する州での急速な奴隷制廃止を主張した。「改革」という言葉は領土における奴隷制を拡大した1850年の妥協に反対する者達にも適用された。 しかし、後出しの恩恵も無く、1854年選挙では反奴隷制よりもノウ・ナッシング運動の方が勝利する可能性を示していた。カトリックと移民の問題が奴隷制よりも民衆に訴える力があるように思われたからである。例えば、ノウ・ナッシングズは1854年のフィラデルフィア市長選挙で8,000票以上の大差で勝利していた。ダグラス上院議員はそのカンザス・ネブラスカ法に対する大きな反論を受けた後ですら、民主党に対する基本的な脅威として、共和党よりもノウ・ナッシングズの方を上げていた。 共和党が自分達は「自由労働」を主張する政党であると主張すると、その支持者が急増したが、主に中流階層による支持であり、賃金労働者や失業者など労働階級の支持ではなかった。共和党が自由労働の美徳について褒めそやす時、それは単に「事を成就した」多くの者と実際にそうしたいと考えているその他多数の経験を反映しているだけであった。イギリスのトーリー党と同様に、アメリカの共和党は民族主義者、均質主義者、帝国主義者および国際人として浮上してきた。 まだ「事を成就し」ていない人々の中には、北部の工場労働者の中での比率が大きく伸びていたアイルランド移民が含まれていた。共和党はその秩序ある自由という構想に基本的に必要な自制心、克己心、および冷静さという性格がカトリックの労働者には欠けていると見なすことが多かった。共和党は、教養、信条および勤勉さには高い相関があると主張していた。それはプロテスタントの労働倫理の価値観であった。共和党支持のシカゴ・デモクラティック・プレスは、1856年の大統領選挙でジェームズ・ブキャナンがジョン・C・フレモントを破った後の社説に「自由学校が悩みのタネと見なされる所、宗教が疎んじられ、怠惰な浪費が支配的な所、そこではブキャナンが強い支持を受けた」と書いた。 民族と宗教、社会と経済および文化の断層線がアメリカ社会に走っていたが、党派色を強めていくことになり、上昇する産業資本主義に利益を見出すヤンキーのプロテスタントと、南部の奴隷所有者の利益に結びついた者に対する反対を強めたアメリカ的民族主義者の対抗という形になっていった。例えば、評価の高い歴史家ドン・E・フェーレンバッヒャーはその著書「1850年代における偉人、リンカーンへの序曲」の中で、イリノイ州では目立った選挙結果は開拓地の地域形態と相関があることを指摘して、いかに国の政治の縮図となっているかを述べた。南部出身者が入植した開拓地は民主党に忠実であり、ニューイングランドからきた者は共和党に忠実であった。さらに境界にあたる地域は政治的に中道であり、慣習的に力の均衡を図っていた。宗教、倫理感、地域および階級的同一性が縒り合わさり、自由労働と自由土地の問題は容易に人々の感情をあおった。 「血を流すカンザス」における次の2年間の出来事は、カンザス・ネブラスカ法によって元々北部の一部の者に引き起こされた民衆の熱情を維持させた。北部出身の者は新聞や説教および奴隷制度廃止論者組織の力強い情報宣伝によって勇気づけられた。マサチューセッツ移民援護会社のような組織から財政的な援助を受け取ることも多かった。南部出身の者はその出てきた地域社会から財政的支援をしばしば受けていた。南部の者達は新しい領土で出身地の憲法で保障された権利を守ることを求め、「敵対的また破滅的な立法」を撃退するに十分な政治的力を維持しようとした。 大平原は綿花の栽培にはほとんど不向きであったが、西部が奴隷制に開放されることを要求した南部の者達は心の中には鉱物のことを考えていた。例えばブラジルでは、鉱業に奴隷の労働者を使って成功した事例があった。18世紀の中頃、ミナスジェライス州では金鉱に加えてダイヤモンドの採掘が始まり、ブラジル北東部の砂糖生産地域から奴隷を連れたその所有者が大挙して押し掛けた。南部の指導者達はこの事例を良く知っていた。それは既に1848年の奴隷制擁護派雑誌「デボウズ・レビュー」で奨励されていた。 「血を流すカンザス」と1856年の選挙→詳細は「血を流すカンザス」を参照
![]() 1855年頃のカンザスでは、奴隷制問題が耐え難いほどの緊張感と暴力を生む状態になっていた。しかしこれは、開拓者の圧倒的多数が公の問題には無関心で単に西部の土地に飢えた者達である地域のことだった。住人の大多数は党派的な緊張関係や奴隷制の問題に無関心であった。その替わりにカンザスの緊張関係は敵対する要求者の間の闘争になっていった。カンザスに開拓者の最初の波が訪れたとき、誰も土地の権利を持っていたわけではなく、耕作に適した新しい土地を占領しようと皆が押し掛けた。緊張感と暴力はヤンキーとミズーリ州の開拓者が互いに競い合うという形で起こったが、奴隷制の問題で理論的に分かれていたと言うような証拠はほとんど無い。その替わりに、ミズーリ州の要求者はカンザス� |