兵庫銀行
株式会社兵庫銀行(ひょうごぎんこう)は、かつて兵庫県神戸市に存在した第二地方銀行である。通称は相互銀行・普通銀行時代を通して兵銀(ひょうぎん)。経営破綻するまでは、現在の東京証券取引所に上場していた。1995年に経営破綻、その受け皿銀行となった株式会社みどり銀行についてもここで記す。統一金融機関コードは0561だった。 兵庫銀行の本店は神戸市中央区三宮町1丁目1にあったが、阪神・淡路大震災で建物が倒壊したため、跡地には三宮セントラルビルが建てられ、同年設立された受け皿銀行みどり銀行の本店は神戸市中央区生田町1丁目4番3号に置かれた。なお現在は、整理回収機構を通じて売却されている。 1895年(明治28年)から1904年(明治37年)まで存在した株式会社兵庫銀行(株式会社兵庫共融銀行(明治22年 - 明治28年)が改称)とは別法人である。 沿革兵庫銀行
みどり銀行
バブル期に業績拡大1970年に山本義政の後任として兵銀の社長に就任した長谷川寛雄は積極的な拡大路線をとった。翌年の1971年には高松市の高松相互銀行を合併し、香川県や徳島県にも店舗網を広げることとなった。その後、長谷川が会長となって実権を握りつつ、1981年に元日本銀行考査局長を社長に迎え、1982年には元国税庁次長と社長を交替した。 こうした中央とのパイプ作りも奏功し、80年代に入って兵銀の預金量と貸出量は増大し始めた。1987年には預金量が1年に1兆円も増大し、1985年の資産1.8兆円、資本金110億円が、ピークの1990年3月にはそれぞれ4.4兆円の2.4倍、640億円の5.8倍へと急膨張、当時第二地方銀行最大手となった。そして、1989年2月に宿願の普通銀行への転換を果たし、バブル景気もあって株価は5倍に高騰した。1991年に初の海外拠点・香港駐在員事務所を開設した。 しかし、内情を見てみれば1985年度から1994年度までの兵銀の主要業種別の貸出件数の推移を見ると、製造では4000件弱が2000件強へと半減、卸小売飲食でも9000件強からほぼ半減した。バブル期の貸出増加分はバブル崩壊によってほぼ不良債権になった点を考えると、兵庫銀行が製造業や卸小売飲食といった地域の主要産業を放置して、不動産や株式投資に注力していたことがわかる。 戦後初の銀行破綻1990年1月に始まる東証株価下落により、バブル景気が崩壊へと向かった。1992年6月には関連ノンバンクの経営悪化が表面化し、長谷川は会長を引責辞任した。兵銀の預金は最盛期の1991年3月につけた3.7兆円から、1992年3月には3.2兆円、1993年3月には2.4兆円と3/4にまで減少。株価も1/3に急落した。経営危機が公然化し資金不足は深刻化する事態となり、総資産の17%近くを日銀融資に保障されたコール市場から調達、さらには高金利の譲渡性預金をかき集め何とか資金の目途を付けていたものの、もはや完全な死に体だった。 1993年6月、第二地方銀行への天下りとしては異例とも言える大物、元大蔵省銀行局長の吉田正輝(奇しくも、銀行局長時代に同じく乱脈経営で破綻した平和相互銀行の処理を担当した)が社長に就任し、兵銀の経営再建と救済措置に乗り出す[2]。処理策をめぐって兵庫県・神戸市等の地元自治体および財界との調整が進めたものの、1995年1月に阪神・淡路大震災が発生し、兵銀は三宮の本店が倒壊するなど店舗網等が打撃を受けた。さらに、東京協和信用組合・コスモ信用組合や住宅金融専門会社の経営危機と、破綻処理に伴う公的資金問題が表面化した。金融不安を払拭するため、1995年8月30日、兵庫銀行の破綻処理と新銀行への継承が発表された(ちなみに同じ日には木津信用組合も経営破綻している)。 “みどり”から“みなと”へ1996年1月29日、みどり銀行(1995年10月27日設立)が、兵庫銀行の営業を譲り受け、発足した。回収不能とされた債権8100億円に対しては、まず預金保険機構が1000万円以下の預金へ4730億円つまりペイオフコストの金銭贈与(適用第一号)、自己資本を取り崩して1745億円、営業権(今後10年間の営業利益見込み)を1800億円設定し、これに対して地元企業と関連金融機関が709億円出資し、日銀が劣後ローンを1100億円支援することで捻出された。 しかし旧兵銀の不良債権を引き継いだのと、営業利益が見込み以下の結果、償却不足となり、1998年、みどり銀行の経営危機が表面化した。結局、同年5月にみどり銀行を破綻させ、1999年4月1日に同じ第二地銀であったさくら銀行系の阪神銀行が救済合併しみなと銀行が発足。大阪府内の一部を除く兵庫県外の店舗は合併直前の同年1月までにすべて閉鎖している。本店営業部を含む一部の店舗(主に阪神銀行と同名の支店)は合併と同時に阪神銀行店舗に統合された。 一連の破綻処理で、投入された公的資金は約1.5兆円であった。つまり、兵銀破綻時の公表不良資産1.5兆円はほぼ全額が回収不能だったことになる。また、帝国データバンクが後に行った、破綻銀行関連の企業倒産では、兵庫銀行関連は446件と調査時点でダントツで、破綻から6年が経過した2001年にも5件あり、その影響の大きさを物語っている。 これを教訓に、後の金融機関の破綻処理では不良債権を整理回収機構に切り離して適資産のみを受け皿金融機関が受け継ぐように制度が整備された。 営業店
関連会社
備考
脚注外部リンク |