仏教美術仏教美術(ぶっきょうびじゅつ)は、仏教信仰に基づいた礼拝対象、あるいはそれら活動のための美術の総称である[注釈 1]。これらには、仏陀や菩薩、実在・伝説上の尊格や尊者、祖師、または彼らの生涯(仏伝図)や伝説を描いたもの、曼荼羅や修行のための図像、さらに、ストゥーパや塔門、寺院などの建築や、金剛杵などの仏具が挙げられる[2]。本項においては、仏教に関する芸術のうち、おもに視覚的なものについて解説する。 仏教美術は、釈迦入滅以降のインド亜大陸で興り、仏法(ダルマ)と僧伽(サンガ)が拡がるのと同様、仏教が伝来したアジア各地で発展した(#インド仏教美術)。インド北部から中央アジアを経由して、東アジアへと至り、北伝仏教美術が生まれた一方(#北伝仏教美術)、東南アジアでは主に南伝仏教の美術が生まれた(#南伝仏教美術)。インドでは、先行するバラモン教の理論を取り入れ[3]、ヒンドゥー教やジャイナ教とともに洞窟寺院をつくったように、各地でも、在来宗教を取り込み、独自の発展をした[4][5]。 日本語においては、明治期の日本で行われた欧米的な美術教育において「美術」の概念、およびその下位概念である「絵画」・「彫刻」・「工芸」が新たに輸入・導入されたことにより、仏像・仏画・仏具が日本美術のなかで仏教美術として捉えられるようになった(日本美術史)[6]。 インド仏教美術![]() 無仏像時代(紀元前5世紀 - 紀元前1世紀)なぜ仏像は作られなかったのか?最初期の仏教において、釈迦は人間の形で表されることはなく(不表現、英:aniconism)、仏教のシンボルによって描写された[7]。理由については諸説あるが、主なものしては以下のようなものが挙げられる[8]。
仏陀の可視的な人体表現が忌避されたことで、暗示的な象徴表現はより一段と洗練されていった(説話のシーンにおいて他の人物は人間として描かれていたにもかかわらずである)[13]。この傾向は紀元2世紀まで続いた(下図参照)。 紀元前3世紀に石像が登場する以前、木像や金属像があったとの仮説もある[14]。 ![]() 仏像以前の仏教美術→「インド美術 § 宗教美術の用語」も参照
初期仏教の時代は、建築や装飾美術において、後代の造像につながる様式が確立された。ストゥーパは、釈迦の墓であり、ダルマの象徴であり、涅槃へ達した釈迦そのものであり、したがって出家者・在家信者にとっては礼拝対象(チャイティヤ[注釈 5])であった[17][16]。 インド亜大陸の大部分を版図に治めたマウリヤ朝の第3代アショーカ王(紀元前3世紀半ば)は、戦いでの傷心から仏に帰依し、入滅時に8基のストゥーパに分けられた舎利を分配し、8万4千ものストゥーパと、象・牡牛・馬・獅子を頂に抱いた石柱を築いたとされる[18][19][20]。釈迦の彫刻は作られなかったものの、仏教由来でない、ヤクシャ、ヤクシーといった夜叉・善神像が制作された[21][22][23][24][注釈 6]。 紀元前2世紀、マウリヤ朝はシュンガ朝によって滅ぼされ、北インドはふたたび混乱に陥った。地域的な安定は1世紀にクシャーナ朝がこの地を統一するまで待たねばならなかったが、一方で、この混乱の時代にあっても仏教の波及と仏教建築(ストゥーパ)の発展は進んだ。また紀元前1世紀にかけて、釈迦の人生と説法を描いた仏伝図や、釈迦の前世を描いた本生譚(ジャータカ)を象徴した作品が作られるようになる[25]。奉納を目的として石板やフリーズに彫られたこれらの図は、多くの場合ストゥーパの装飾の欄楯として用いられた。この頃の重要な作例としてはサーンチー第1塔の塔門浮彫(サータヴァーハナ朝)とバールフットの欄楯が挙げられる。 インドにおける仏教美術の最初期の作品は、紀元前1世紀にさかのぼる。ブッダガヤのマハーボディー寺院は、ビルマとインドネシアで同様の構造の寺院が建造された。スリランカ、シギリヤのフレスコ画は、制作年代においてアジャンタ洞窟のものよりも遡るとされている [26]。
仏像時代(紀元1世紀 - 現在)![]() 2020年時点で、最古の仏像は、ガンダーラかマトゥラー産か、結論が出ていないが[27]、イラン系の王朝、クシャーナ朝のカニシカ王(在位144年-171年頃)の治世には既に大量の仏像が制作されていたようである。カラチ博物館所蔵の『祇園布施図』は、正確な出土地が不明であることと、その様式からパルティア時代のガンダーラのものと判別できる点で、その典型的な例と言えよう[28]。また、ガンダーラ地方とほぼ同時期に、北インドのマトゥラーと南東インドのアマラーヴァティーでも仏像の制作が始められた[29]。 なお、初期仏教の末期に成立したとされる『増一阿含経』には造仏像の功徳を説く記述が存在する(優填王造仏像伝説)[30]。ただし、これに対応するパーリ語経典『増支部』には、この記述は存在しない。 ![]() ヘレニズム文化は、紀元前4世紀のアレクサンドロス大王の征服によってガンダーラにもたらされた。 マウリヤ帝国の建国者であるチャンドラグプタ(在位紀元前321–298年)は、4世紀末のセレウコス・マウリヤ戦争でインド北西部のマケドニア領(サトラップ)を征服した。そのチャンドラプタの孫であるアショーカ王(在位紀元前268-232年)はインド亜大陸に覇を唱えたが、カリンガ戦争の後に仏教に深く帰依するようになった。以降対外拡張戦争に消極的となったアショーカは、法勅として石碑に刻ませた碑文に見られるようにマウリヤ帝国全体へ「法(ダルマ)の政治」の普及を目指しはじめた。アショーカ王は、法勅のなかでマウリヤ帝国領内のギリシャ人たちを仏教徒へと改宗させたと主張している: アショーカ王の時代には過去仏信仰がすでに始まっていた[33]。初期の仏像美術において、歴史的な仏陀も過去七仏の一つである釈迦牟尼仏も(大乗仏教成立以降は阿弥陀仏も)、瞑想する仏陀として同様の表現方法が行われた。それゆえに、仏陀の周囲に施された装飾が文脈を理解し、どの仏陀であるか判別する上の鍵となる[34]。 ガンダーラ(クシャーナ朝以前)
紀元前2世紀ごろにマウリヤ朝がシュンガ朝によって滅ぼされると、この混乱に乗じて、ヘレニズム国家であったグレコ・バクトリア王国やそれに続くインド・グリーク朝の諸王国が紀元前2世紀から1世紀にかけてインド北西部を支配する。 彼らの征服活動により、ギリシャ式仏教美術がインド亜大陸の他の地域へと広まることとなった。前2世紀中頃のインド・グリーク朝の王、メナンドロス1世(ミリンダ王)は、仏教の偉大な庇護者として知られ、のちには出家して阿羅漢果[注釈 7] を得たという[35]。 また、この時代、紀元前1世紀には、上座部から分裂し教勢を増しつつあった説一切有部が、「心に感じられる一切のものは実在する」という、仏陀の偶像表現を許容しうる主張を行っていた[36]。しかしながら、実際に人間の姿をとった釈迦像が確認できるのは1世紀末のことである。 紀元1世紀、北インドを統一したクシャーナ朝は、ガンダーラ地方のプルシャプラ(現代のパキスタン、ペシャワール)を都と定め、第3回仏典結集を主催し、この頃すでに盛んになっていた大乗仏教・菩薩信仰を保護した。 初期のガンダーラの仏教美術には、その人体表現や装飾表現においてヘレニズムがインド美術に及ぼした影響をうかがうことができる。これらの仏像は、それまでインドで作られていた像よりも遥かに大きく作られ、写実的な表現が試みられた。波打つ髪やコントラポスト、通肩[注釈 8]、靴、サンダル、アカンサスによる装飾などは、ヘレニズム下のギリシャや古代オリエント由来のものである。 2世紀頃までのガンダーラでは、信仰対象というよりも修行の励みとするため仏伝図や釈迦の独尊像が作られていた[37]。ところが、3世紀に入りアヴァローキテーシュヴァラ(観音)信仰やマイトレーヤ(弥勒)が始まると、現世利益のため、崇拝の対象としての仏像が作られるようになる[38]。 マトゥラー紀元前から紀元後1世紀のマトゥラーは、宗教都市であると同時に、ガンジス川の支流ヤムナー川に面していたことから交易都市としても栄え、商業的に発展していた。紀元前2世紀にはシュンガ朝のプシュヤミトラの支配が及び、この間仏教は迫害された。おそらくはマウリヤ朝の影響を消し去ることが目的であったようだが [40]、 これによってマトゥラ東部の仏教美術は一度衰退した。1世紀後半、クシャーナ朝の支配がこの地へ及ぶと、マトゥラーは副都と定められ、多文化の交流する文化発信地の役割も果たすようになる。こういった状況のもとで、マトゥラーでは仏教美術がふたたび盛んになったのみならず、インド大陸の他地方にさきがけて最初期の仏像が制作された。北西インド、ガンダーラの影響を受けて造像が始まったという可能性も否定できないが、図像や造形、様式についてはヘレニズム由来ではなく、同地におけるマウリヤ朝以来の他宗派の芸術(ヤクシャ像、ヤクシー像[バラモン教]・ジナ像[ジャイナ教])からの流れが色濃く、インド土着の表現がなされている[29]。例として、頂髻相(頭頂部に巻き貝型の肉髻)、口髭があまり付けられないことなどが挙げられる。その一方、形式上の共通点も見られないわけではない。白毫相(白い毛房)、耳朶の垂下、手足の千輻輪相、頭光(神聖さを表す光の円盤)(これらは三十二相八十種好で挙げられる仏陀の身体的特徴である)などは、いずれもクシャーナ朝の都であったガンダーラ、マトゥラー両都市で、これらの要素を意識しながら制作が行われていたようである[注釈 9]。 ![]() 後期石窟寺院美術インドにおける初期仏教絵画の作例はほとんど遺されていない。だが、アジャンター石窟の後期の壁画は、480年頃までの比較的短い期間に残された作品群として、この時代の希少な仏教絵画の大部分を成している[42]。これら作品の極めて洗練された描写は、明らかによく発達した伝統に基づいている。また、宗教的な主題だけでなく、宮廷内の華やかな様子や王と王妃が交歓している官能的な場面は、アジャンター石窟そのものが持っていた世俗性と、バラモン教からの民衆化・世俗化が進展しつつあったヒンドゥー教の美術と仏教美術の接近・融合を示唆している。 インドでは仏教美術はその後も数世紀にわたり発展し続けた。グプタ時代(4世紀から6世紀)には、マトゥラーの赤色砂岩彫刻はさらに進化し、仏教美術の造形は優美さと繊細さにおいて極致に達した。この時期には、マトゥラー様式の影響が及んだサールナートで白い砂岩が用いられた仏像が盛んに作られた一方[43]、マトゥラーでも引き続き造像が続けられた。この時代の傑作、「初転法輪仏坐像」に見られるように、サールナート様式はマトゥラー様式と比べて相貌が穏やかになり、装飾もより一層繊細なものになった[43]。サールナート様式は、後期石窟美術やナーランダーの仏像美術にも影響を与えた点でも重要といえる。 ![]() グプタ様式は、アジアのほとんどの地域に強い影響を及ぼした。12世紀末には、仏教は南アジアのなかではヒマラヤ地域でのみ栄えていた。が、これらの地域はその場所に助けられてチベットや中国とより密接に接触していた。例えば、ラダックの芸術と伝統はチベットと中国の影響を受けている。 密教の登場![]() ![]() 6世紀、ヒンドゥー教を国教としたグプタ朝[44] の北インド統一と[注釈 10][45]、ローマ帝国の混乱に端を発する東西交易の退潮が起こる。これによって、インドの仏教は庇護者・檀家層の両者からの援護を以前ほどは受けられなくなった。また、商業・交易の衰退は、バラモンと農村地帯に基盤を置くヒンドゥー教の影響力を相対的に増加させることとなった[46]。劣勢に立たされた仏教教団は、打開策として既存のヒンドゥー教やベンガル地方で勃興しつつあったタントラ、あるいはその他の民間信仰といった、他宗の儀式や習俗を取り込んでいく。密教の成立によって、インドにおける仏教美術は曼荼羅や動的な仏像を生み出した。インドにおける密教美術は、この地へのイスラーム勢力の侵攻が決定的となった13世紀初頭まで続いた[注釈 11]。 密教が体系化されていくにあたって、儀礼の採用(護摩、真言や曼荼羅、印契)が図られた。その中で、密教美術と呼べるものとして登場したものが、儀式用の法具やマンダラであった。4世紀から6世紀頃までは、北方系と南方系、いずれの仏教においても、除災招福を目的とした日常的な儀礼・慣習としての呪術は行われていた[注釈 12][49]。しかし、これらの儀式はあくまで悟りの追求とは目的を別としていた。ところが、6世紀から7世紀にかけて、これらの呪術の目的は現世利益的なものから正しい悟り・成仏(解脱)へと焦点が移される[50][注釈 13]。また、4世紀から5世紀頃、ガンダーラの僧、世親が『倶舎論』の一章、世間品のなかで須弥山と宇宙について説いたことで、仏教においても宇宙観について議論が行われるようになった[51]。これらの要因を背景として、瑜伽観法が成立し、また宇宙に充満する仏・菩薩・明王・諸天・鬼神にいたるまでをパンテオンとして視覚的に表した曼荼羅が登場したのである[52]。なお、曼荼羅をはじめとした密教における「視覚芸術」は、布教や美的感覚を満足させるために制作されたわけではなく、色や形を通じて宇宙の本質性を表すことを目的に作られたことに留意しなければならない[53]。中国や日本の密教においてはこの関係性は顧みられなくなったものの[注釈 14][55]、その後のインド仏教やチベット密教においては引き続き重視された[56][53]。8世紀に入ると、インドにおいては『大日経』系密教にかわって『金剛頂経』系の密教が主流となり[57]、したがって、曼荼羅においても胎蔵界曼荼羅の作例は途絶え、金剛界曼荼羅[58]、さらにこれを踏まえた無上瑜伽密教系の曼荼羅が制作されるようになった[59][60]。インドやチベットで作られた、膨大なバリエーションを持つ無上瑜伽系の曼荼羅はいくつかの系統に大別することができるが[注釈 15]、芸術・聖像学的な視点で見た場合、以下のような特徴をあげられる[59]: 仏教彫刻においても密教化は進んだ。6世紀中頃に造営が始まったアウランガーバード石窟では、建築構造や女尊表現、官能的な身体表現といったアジャンター以前には見られなかった特徴が確認でき、ヒンドゥー美術の影響の大きさと密教美術の萌芽を見ることができる[65]。これは、彫刻史においても変化を意味した。動的な所作や豊かな肢体が表現されるようになったのは、古典的で内省・均整が特徴的なグプタ朝美術からバロック的な中世インド美術への移行であった[66]。 11世紀末から始まったセーナ朝の時代は、インド亜大陸において仏教美術が盛んに制作された最後の時代であった。1203年にゴール朝の軍勢によってヴィクラマシーラ大学が破壊されると、同地における仏教の中心地を失った僧侶たちは他国へと移住・亡命し、インドにおける仏教美術は終焉を迎えた。
11世紀に始まるイスラーム王朝のインド侵入以降、北インドの密教含む仏教は大きく衰退するが、密教とそれに付随する密教美術はカンボジアや大スンダ列島、チベットといった、インドの周辺地域で隆盛した。特にチベット仏教とその美術は、モンゴル系民族や中国へと数世紀に渡って多大な影響を残すこととなる。 ![]() 釈迦入滅後、仏教がインド亜大陸内外にひろまるにつれ、本来的な一連の仏教美術が他の芸術の要素と混ざり合い、仏教受容国のあいだで仏教美術の発展的差異が生じていった[68]。 中央アジア、ネパール、チベット、ブータン、スマトラ島、ジャワ島、中国、韓国、日本、ベトナムなど。 北伝仏教美術![]() 北伝仏教の美術は、大乗仏教の発展に強い影響を受けていた。この教派はより包括的であり、伝統的な阿含経に加えて新しい経典を採用し、仏教の理解自体を変化させていたことにその特徴があった。大乗仏教は、初期仏教が修行の到達点としていた阿羅漢[注釈 18] ではなく、そこからさらに菩薩の境地をめざすことを重要視していた。般若経(大乗仏教の経典群)において、仏陀は超越的な存在へと押し上げられ、主軸は菩提、六波羅蜜、知恵の完成(般若波羅蜜多、Prajñāpāramitā)、悟り、衆生の苦しみからの救済に専念する菩薩たちに置かれた。それゆえ、北伝仏教芸術は、様々な成仏(過去七仏)や如来、菩薩や天部(韋駄天や帝釈天)に関する作品に見られるように、多種多様で混淆的である。また、大乗仏教が広まったそれぞれの土地において、土着の宗教や信仰と結びつくことで新たな信仰とそれに伴う芸術様式が生まれることも少なからずあった[注釈 19]。 中央アジア、中国、そして最終的には朝鮮半島と日本にまで至る仏教のシルクロードを介した伝播は、後漢の明帝によって西方へと派遣された甘英ら使節たちが残した半伝説的な説明によって、紀元1世紀まで遡ることができる。しかしながら、より広範な伝播は2世紀ごろ、クシャーナ朝(仏教の庇護者であった)の西域への拡大と、中央アジア出身の僧侶たちの漢訳活動と熱心な中原への布教とによって始まったといえる。支婁迦讖のような中国への最初期の仏教伝播を担った僧侶たちは、パルティア人、月氏、ソグド人またはトハラ人とされる。 北伝仏教の美術と東方への影響→「古代ギリシアの彫刻」および「en:Persian art」も参照
シルクロードを通じた仏教の布教活動には、芸術方面での影響を伴っていた。それらは、現代の新疆ウイグル自治区にあたるタリム盆地で2世紀から11世紀にかけて栄えた東トルキスタンの美術に見ることができる。シルクロード美術は、多くの場合ガンダーラ地方で、インドやギリシャ、ローマの影響を受けつつ成立したギリシャ式仏教美術に起源をもつ。また、ヘレニズム仏教美術は、大乗仏教の教えを伝えたのみならず、古代ギリシャやローマ、ペルシャ、北西インドの文化・風俗・身体表現・装飾を伝える役割をも担い[69][70][71][72]、近くは南インド、遠くは日本にまで今日まで至る文化的な影響をのこした。それらは、建築の紋様(宝相華文や連珠文)や聖像、仏画、仏像、神道(水天や鬼子母神)に見ることができる。 図像的なディーテールにおいても、ヘレニズム文化から仏教美術への影響が及ぼされた[73][74]。翻波式衣文といった衣紋の表現や、フリーズにおける植物や幾何学パターンにおいて顕著であるが、聖像表現においてもそれは例外ではなかった。例えば、尊格の装束においてはディアデーマがある。ディアデーマ(希:διάδημα)とは、ペルシャやヘレニズム国家の王が身につけた冠であり、王権の象徴でもある。ディアデーマは仏教美術にそのまま尊格の表現として採り込まれると、中国の莫高窟の壁画や日本の来迎図などに登場する菩薩や飛天の表現様式とともに定着した。 また、ガンダーラおよび中央アジアにおいて仏教彫刻が成立していくなかで、ギリシャ神話の神々やゾロアスター教の神々、そして他のインドの神々が取り込まれていった。これらの地域で制作された仏教彫刻にのみ作例がのこるアトラース神[注釈 20]やトーリトーン神、アフロディーテー神、ポセイドーン神のような神格もあれば、美術様式の一端となって東アジアまで伝わった、ミスラ神と習合したヘーリオス神、クベーラと習合したディオニューソス神、ニュクス神、エロース神などの神格、後代には天部として仏教において信仰対象になったヘーラクレース神(執金剛神)やスーリヤ(日天)、ハリーティー神と習合したテュケー神(鬼子母神)、クベーラと習合して食厨の神としての大黒天を形作ったファッロ―神(後述)などがいた[76]。20世紀に入ってからの美術史における研究で、仏教美術に取り込まれた神格が、本来ギリシャに源流を持つことが明らかになった例もある。ガンダーラ、敦煌にも作例が残る風神と雷神は、本来はギリシャ神話のボレアース神に図像的な起源を持つことが研究によって指摘された[77]。さらに、日本の宗教美術史家である田辺勝美は、「武装した毘沙門天」という図像の成立過程に関する研究を通じて、天部のひとつである毘沙門天が、ギリシャのヘルメース、ローマのメルクリウスに源流をもつ、クシャーナ人に信仰された福神、ファッロ―(バクトリア語:Pharro、アヴェスター語:クワルナフ)を基に成立したことを明らかにした[78][79]。
|