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世界基督教統一神霊協会の年表

世界平和統一家庭連合世界基督教統一神霊協会統一教会」)に関する年表。

1920年 - 1939年

1920年
  • 2月25日 (陰暦1月6日) - 文鮮明が平安北道定州郡徳彦面上思里2、221番地にて、父・文慶裕、母・金慶継の次男として出生[1][注 1]。出生名は「文龍明」[注 2]。13人兄弟だったがうち5人は早世している[1]
1924年
1933年
  • 6月3日 - 白南柱、李浩彬、韓俊明、李龍道らは「イエス教会」を創設。
  • 10月2日 -「李龍道」が33歳で死去。後任は「李浩彬」。
1934年
  • 文龍明数え年15歳、この頃、文一家に精神病者が続出したのをきっかけに、(文龍明を含む)文一家が儒教からキリスト教に改宗[注 4][注 5][注 6]。文龍明の兄と姉が精神病にかかったのがきっかけで一家は徳興教会に通うようになり、全員がキリスト教に入信したと言われている[7]
1935年
  • 4月17日 - 生家近くの猫頭山で神秘体験をする[8]。以後、1930年代に朝鮮北部で起こった「神霊教団」(朝鮮土着の民俗宗教と混交した、キリスト教異端に属する神秘主義集団を指して統一教会がこのように呼んでいる) と深いかかわりを持つようになる[9]
  • 10月 -「金聖道」夫人を教祖とする「聖主教団」(聖主教)が、金聖道の長男「鄭錫天」の名義で、朝鮮総督府宗教課に認可される。

1940年 - 1944年

1940年
  • 2月11日 -「江本龍明」と創始改名。
1941年
  • 3月31日 - 文鮮明は午後2時10分[注 7] 京城発 京釜本線 急行「ひかり」で10時間かけて釜山へ。
  • 4月1日 - 文鮮明は午前2時40分[注 8] 釜山発 関釜連絡線「昌慶丸」で日本へ。下関に到着。統一協会では4月1日を「日臨節」と呼び、例年記念行事を開催している。
  • 同月 - 文鮮明は「江本龍明」の名で、早稲田大学付属早稲田高等工学校電気工学科(夜間の各種学校)に入学[注 9]。朝鮮人学生二、三名と新宿区戸塚二丁目(現・新宿区西早稲田一丁目)にある三橋孝蔵・イト夫妻の家の2階に卒業するまで下宿。昼は川崎の製鉄所や横浜の造船所、運送運搬、練炭屋のアルバイト、などのさまざまな日雇い仕事をしていたとする。
1942年
  • 文鮮明は地下教会(神霊集団)の本格的遍歴を開始。
1943年
  • 2月10日 - 日本併合下にあった朝鮮平安南道 の安州郡の信里(現在は北朝鮮統治区域)で、洪順愛(ホン・スネ)は韓承運(ハン・スンウン)との間の子である韓鶴子を出産。
  • 10月 - 卒業後すぐに半島に戻る。
  • 12月 - 23歳の文鮮明が18歳の崔先吉(チェ・ソンギル、教団では「真の母」[注 10]としての第一候補だったとされる)と婚約。「年齢は10代で、篤実なキリスト教徒であり、洗礼ヨハネの使命を果たす女性」という条件で文鮮明は選んだという。なお、崔先吉は母親と共に、大韓イエス教長老会再建派)の信者であった。見合いだったともされる。崔先吉の実家は豪農であり、文鮮明は「早稲田大卒」と学歴詐称して結婚したとされる。見合いの日から3日間、崔先吉の実家に寝泊りし、性交したとされる。[11]
1944年

1945年 - 1949年

1945年
  • 4月28日 - 文鮮明は崔先吉との婚姻届を提出。
  • 10月 - 郭山の警察に一時拘束される。
  • 10月 - 京畿道の坡州のイスラエル修道院 の金百文(キム・ペンムン)[注 13]のもとで学ぶ。京城の永登浦区域所(現:永登浦区上道洞の礼拝所で補助引導師を務めたと言う。文鮮明の著作『原理原本』(1952年発行)は、この金百文の著作『基督教根本原理』(1946年3月2日起草、1958年3月2日発行)の執筆中に文鮮明が盗作したという証言がある[13]
1946年
  • 6月6日 - 天啓により、妻と3ヶ月の息子「文聖進」(ムン・ソンジン)を置き去りにして、朝鮮キリスト教布教の中心地であったソ連占領下の平壌へ行く(神が用意した神霊集団を統合し直すためとされる。それらの集団は「混淫派」や「霊体交換派」と呼ばれる「血分け」を行う者達だとも言われる。)[注 14]。1946年に北朝鮮に渡ってから、収容所に送られる1948年6月までの文鮮明の活動は謎に包まれている[14]。これは、文鮮明の回顧談、統一教会側の資料、統一教会の古参信者の証言とが矛盾していることが原因である[14]。この矛盾は、統一教会が「血分け」の事実を消そうとしているためだと考えられている[14][15]
  • 朴雲女(パク・ウンニョ)[注 15]と共に布教を始める[16]
  • 6月11日 - 金百弼(キム・ウォンピル、三弟子の1人)が弟子となる。
  • 8月11日 - 牧師の訴えと李承晩(イ・スマン)のスパイ嫌疑(風俗紊乱の容疑だったとも言われる)で大同保安署に拘束される。
  • 大同保安署に3ヶ月収容(獄中に、再臨主を待つ「腹中教」の教祖「許孝彬」(聖主教平壌教会長「李一徳」の妻)とその幹部もいた)。朝鮮労働党当局による拷問を受ける[注 16]
  • 11月21日 - 釈放。
1947年
  • 初旬 - 平壌で伝道開始。
1948年
  • 4月7日 - 文鮮明は、「社会秩序を乱した」という社会紊乱罪で[注 17]、重労働5年の実刑を受ける。
  • 4月〜5月 - 平壌刑務所に収監される。
  • 5月20日 - 興南(フンナム)収容所(徳里特別労務者収容所)[注 18]に移送、収監される。肥料の山を移しかえる仕事をさせられる。興南収容所に収監されている間に妹が亡くなったとされる。
  • 文鮮明が収容所に送られてきた朴正華(パク・チョンファ)を弟子にする。

1950年 - 1954年

1950年
  • 6月25日 - 朝鮮戦争が勃発。
  • 10月 - 朝鮮戦争勃発の混乱に乗じて、興南収容所から脱走[17]
  • 10月24日 - 平壌に戻り、弟子を訪問。
  • 12月4日 - 弟子と共に、大韓民国の臨時首都となっていた釜山府(現:釜山広域市)へ避難する。
1951年
  • 5月11日 - 「原理原本」執筆開始[注 19]
  • 8月 - ダンボール小屋(ボンネッコル教会)を建て、布教開始。
1952年
  • 5月10日 - 文鮮明が「原理原本」を書き上げる。同日、高麗神学校(現在の高神大学)の学生でキリスト教の伝道師、姜賢実(カン・ヒョンシル)が文鮮明を訪ねて来る。後に入教。
  • 12月 - 済州島から李耀翰(イ・ヨハン、り・よはね)牧師が訪ねて来て入教。
1953年
  • 12月 - ソウル大学出身の劉孝元(ユ・ヒョウウォン)が入教。
  • 不明 - 金徳振の提案で、本名の文龍明を文鮮明に改名[注 20]
1954年
  • 5月3日(公式は5月1日)- ソウル北鶴洞(ポクハクドン)391において「世界基督教統一神霊協会」が設立された。最初の会長は李昌煥(イ・チャンファン)。なお李昌煥は後に脱会した。
  • 文鮮明は妻子ある立場で、教団に入教(同年1月7日)したての延禧(ヨンヒ)専門学校{後の延世(ヨンセェ)大}の学生、金明熙(金明姫、キム・ミョンヒ、当時24歳)と関係を持つ。

1955年 - 1959年

1955年
  • 年初め 金明熙が下宿していた「梨花女子大学校」の音楽科講師、梁允永(ヤン・ユニョン)の家を出て、釜山で暮らす。
  • 3月24日 - 当時のエリート校であった「梨花女子大学校」の教授や生徒が次々と統一教会に入信し、大学は異端の信仰をやめないことを理由に、崔元福(チェ・ウォンボク)・金永雲(キム・ヨンウン)・梁允永ら5名の教授・助教授や14名の学生免職.退学分とする。延禧専門学校でも教授が免職処分、2名の学生が退学処分となる。この時期、文鮮明が「血分け」をしているとの噂が広まり、教会に対する社会的批判が高まる[16]
  • 7月4日 - 警察(治安局特殊情報課)が文鮮明を、兵役法違反、女子大生を3日間不法監禁したという容疑で逮捕。後日、劉孝元、金百弼、劉孝永(ユ・ヒョウヨン)の弟子3人も逮捕される[注 21]
  • 8月17日 - 金明煕が日本に密入国した直後に東京で、文鮮明の子、文喜進(ムン・ヒジン、男) を産む[21][22]
  • 10月4日 - ソウル地方院の結審公判で、文鮮明は無罪放免となるが、劉孝元は罰金を科せられ、他の2人は懲役8か月となる。
  • 10月7日 - 文鮮明は出監直後に本部教会をソウルの龍山区青坡洞(チョンパドン)1街71番地に移転する。
  • 12月 - 洪順愛(ホン・スネ)が入教。
1956年
  • 7月 - 崔奉春は米田という人物から、日本に帰化した在日韓国人でクリスチャンの青年を紹介される。青年の時計店で住み込みで働くことになった[23]
  • 夏 - 岸信介は、渋谷区南平台町の自宅に隣接する高峰三枝子の500坪の土地と屋敷[注 22]を借り受け、2軒合わせて自宅兼迎賓館として始めた[26][25]
  • 韓国で切手収集の経済活動を開始する。信者に命令して消印付きの切手を葉書から剥がして集めさせて販売する事業だった。7年間続いた[27]
1957年
  • 1月8日 - 文鮮明は崔先吉との協議離婚届を提出した[28][29]。文鮮明の女性問題が原因とされるが、『中和新聞』はのちの報道で別の見解を書き記した[30]
  • 2月 - 韓国陸軍中佐の朴普煕(パク・ポヒ)が、駐韓米軍第8軍[注 23]の国連軍司令部内米国軍事顧問団長専属副官に在任中に入信。同じく第8軍所属の軍人であった韓相国(別名ブド・ハン)、金相仁(スティーブ・キム)、韓相吉(ハン・サンキル)も入信。朴普煕、韓相国、金相仁、韓相吉は、CIC(Counter Intelligence Corps=対敵諜報部隊)のメンバーであった。この4人は後に大韓民国中央情報部(KCIA)の要員となる[注 24]
  • 8月15日 - 教理解説書「原理解説」を刊行。
1958年
  • 空気銃の生産を開始(仁川の朱安工場から出発)。
  • 文鮮明は崔奉春に国交のなかった日本での布教を命じた[32][33]。貨物船に潜伏する密航は3度失敗し、最終的に同年7月に福岡県に上陸したものの、入国管理法違反で半年の実刑を受け、広島刑務所に収監された[33]。同じく密入国していた金明煕をかくまっていた品川霊能者、志賀如心の所に身を寄せたとされる[34]
1959年
  • 2月18日 - 崔奉春は山口刑務所から釈放されると、西川勝と名乗った[35]
  • 5月頃 - 教会は入教していた東京都渋谷区東北沢の熱心なクリスチャン平福家の土地を譲り受け、センターを建設した。この頃、金明熙が4年ぶりに韓国に戻る。文鮮明は息子の喜進(ヒジン)だけを自分の戸籍に入れ、女性幹部の家で育てさせたと言われる[36]
  • 7月20日 - 全国120か所で、夏季40日間の開拓伝道が行われる。
  • 8月15日 - 教理解説書『原理解説』が発刊される。
  • 10月2日 - 東京都新宿区にあった「雄鶏舎」という時計店の2階の部屋で崔奉春が2名の参加者に対し日本で最初の礼拝を行った。この後、教会は東京都中野区高円寺に移動。中央大学法学部在学中の澤浦秀夫が入教。澤浦の伝道で、佼成学園第一期生、宗教部長を経て立正大学を経て、将来の立正佼成会の中核を為す、と目されていた小宮山嘉一(*渡)が入教。ここから、会員数が急激に増え、小宮山が所属していた立正佼成会第57支部の支部長の長男の久保木修己(立正佼成会会長秘書)などが泊り込みで原理講義を受講、入教する。
  • 12月4日 - 文鮮明に渡米許可(パスポート取得は少し前)。
  • 金永雲を米国オレゴン州ユージンに派遣[37]
  • 金相哲・姜義弘夫妻、文鮮明の命を受けてアメリカ宣教のため渡米。

1960年 - 1964年

文鮮明と妻の韓鶴子
1961年5月16日に朴正煕らは軍事クーデターを決行。翌月に大韓民国中央情報部(KCIA)が発足した。
ソウルで開かれた合同結婚式(1962年6月4日)
岸信介KCIA初代部長の金鍾泌(1962年10月)
1960年
  • 4月11日 - 文鮮明は17歳の韓鶴子(ハン・ハクジャ)と結婚。
  • 4月16日 - ソウル市龍山区青坡洞前本部教会で合同結婚式が開かれる。「金栄輝と鄭大和」「劉孝元と史吉子」「金元弼と鄭達玉」の3組(3双)を祝福。
  • 7月19日 - 岸信介は内閣総理大臣を退任。それに伴い、高峰三枝子から借り受けた渋谷区南平台町の土地の一部と、複数の邸宅のうち、首相公邸として使っていた建物を高峰に返却した[25][38][39][40]
  • 10月14日 - 朴普煕は統一教会の伝道部長に就任[41]
  • 1960年代初頭 - 日本の各大学・地域で大学生の自主的な活動として「原理研究会」が組織される。
  • 韓相吉、ワシントンの駐米韓国大使館付武官に任命され、渡米。
1961年
  • 2月 - 朴普煕は、ワシントンの駐米韓国大使館の陸軍武官補佐官に任命され、渡米[41]
  • 5月15日 - ソウル市前本部教会にて33組(33双)の合同結婚式が開かれた[42]。駐韓米軍第8軍の所属メンバーの朴普煕、韓相吉、韓相国、金相哲らも参加し、祝福を受けた。「33家庭」は、前年に祝福された「3家庭」と合わせて「36家庭」と呼ばれている[注 25]
  • 5月16日 - 朴正煕少将による軍事クーデターが発生。
  • 6月10日 - 大韓民国中央情報部(KCIA)が正式に発足[43]。朴正煕とともにクーデターを主導した金鍾泌が初代部長に就任。金鍾泌は1963年1月までの在任中に、統一教会を韓国の政治的目的のために再編成した[44][45][31][46]
  • 9月30日 - 朴正熙は再建国民運動法を改正し、「容共中立化思想の排撃」とあった文言を「勝共民主理念の確立」に書き換えた。「勝共(승공)」という言葉はこの日、韓国で初めて公式に登場した[47]
  • 9月 - 金永雲とサンフランシスコ在住の数名の信者がカリフォルニア州で「世界基督教統一神霊協会」の名で法人を設立[48]
  • 11月14日 - 朴正煕とジョン・F・ケネディ大統領が会見。韓相国が会見の通訳を務めた[31]
1962年
  • 5月5日 - 文鮮明と韓鶴子は仙和子供舞踊団(現・リトルエンジェルス芸術団)を創設[49][50]
  • 6月4日 - ソウル市前本部教会にて72組(72双)の合同結婚式が開かれた[42]
  • 10月20日 - 金鍾泌は大平正芳外相と国交正常化に向けた話し合いを行う。
  • 10月~11月 - 金鍾泌は米国を2週間公式訪問。通訳として金相仁(スティーブ・キム)を随行。
  • 11月12日 - 金鍾泌は大平は再び会談。経済協力をめぐり、無償で3億ドル、長期低利借款2億ドル、さらに民間信用供与1億ドル以上との内容に合意した[51]
  • 朴普煕はヴァージニア州で「世界基督教統一神霊協会」の名で法人を設立[48]
1963年
  • 5月 - 熱海房子が統一教会に入信。熱海はのちに日本統一教会の初代婦人部長を務めた[52]。娘の惠李子は1969年に梶栗玄太郎と結婚している。
  • 6月18日 - 銀座ガスホールで日本統一教会最初の決断式が開催され、ゲストに笹川良一を迎えた[53]
  • 6月26日 - 文鮮明が『天勝号』の進水式を行う。船舶事業をスタートさせるが、負債が膨らみ、事業は失敗する[36]
  • 7月24日 - ソウル市民会館(鍾路区、現・世宗文化会館の位置)にて124組(124双)の合同結婚式。初めて対外的に公開された式。笹川良一が参列。この式から聖水を使い始めた。韓国人だけの最後の祝福となった。
  • 10月4日 - 教団設立から9年目にして韓国で財団法人として認可される[54]。文化観光部宗教課に登録された公式名称は「世界基督教統一神霊協会有志財団」[注 26]。財団法人として登録されたのは、韓国には宗教法人という制度がないため[54]
  • 10月28日 - 日本統一教会は、教団本部を世田谷区北沢1丁目(現在の代沢5丁目)に移転[53]
  • 11月 - 前田建設社員だった梶栗玄太郎が入信[55]
  • 笹川良一が教団顧問となり、日本において本格的な組織化が始まった[56][57]。統一教会に共鳴した笹川は、岸信介に、教団信者について「私が陰ながら発展を期待している純真な青年の諸君だ」と話した[40]
  • 立正佼成会庭野日敬会長が、創価学会対策、安保対策のため青年部員達を統一教会特別修練会に参加させる[16]
  • 福岡県出身のミッション系大学生の女性が大学を中退し、廃品回収などで活動費を捻出し、下関市に統一教会の教会を設立した。下関駅南側の東大和町1丁目1番地にあるビルの一部を借りて拠点とし、韓国から日本を訪れた幹部や信者たちはここにたびたび宿泊した[58]。この下関教会から南約150メートルの同町1丁目8番地に安倍晋太郎は事務所を構えた[58]。晋太郎は11月21日に行われた第30回衆議院議員総選挙で落選するが、1967年の総選挙で返り咲いた。安倍晋太郎事務所は晋太郎の死後、安倍晋三事務所となり、2023年4月の衆議院補選で初当選した吉田真次の事務所となった[58][59]
1964年
  • 3月 - 「韓国文化自由財団」がワシントンD.C.に設立される。発案者は朴普煕。初代会長は元海軍作戦部長のアーレイ・バークが就き、業務担当副会長には韓国の元駐米大使の梁裕燦(ヤン・ユチャン)が就き、副会長には退役将校のウィリアム・カーティンが就いた。初代名誉総裁は当時、韓国の民主共和党の議長を務めていた国会議員の金鍾泌。朴普煕は設立に当たり、初代理事のロバート・ローランドに「文の事業のために影響力を獲得し、金を集めることが韓国文化自由財団の目的となる。これは偽装組織であって、富裕な人々や政府の役人に対して影響力を獲得するために利用されるであろう」と説明している[60]。韓国文化自由基金(KCFF)という寄金を募る。
  • 4月 - 日本で「全国大学連合原理研究会」(日本の各大学・地域の原理研究会(CARP)の連合体。現・World CARP JAPAN)を設立[61]
  • 6月2日 - 崔奉春は入国管理法違反容疑で警察に連行され、6月4日に世田谷区の北沢署から出入国管理局に移された[62]。そして、笹川良一の尽力により7月17日に釈放された。笹川は賀屋興宣法務大臣のルートを使っていったん帰国させ、再入国許可の措置に持ち込んだ[63]。また、笹川が崔の身元引受人を買って出ると、文鮮明が「日本の陰謀だから、帰国するように」と指示し、韓国へ帰国させたとも言われている[34]
  • 7月15日 - 教団は日本で宗教法人の認可を受ける。翌16日に日本統一教会が設立される[49]。初代会長に久保木修己が就任した。
  • 11月1日 - 日本統一教会は、教団本部を北沢1丁目(現在の代沢5丁目)から、岸信介が高峰に返却した渋谷区南平台町45番地(当時の番地)に移転。岸が首相公邸として使っていた建物はそのまま本部の建物となり[53][64][65][38][25]、本部と岸の私邸は隣続きになった[66]
  • 12月 - 文鮮明は元韓国陸軍朴普煕を米国に派遣した[27]

1965年 - 1969年

渋谷区松濤1丁目の日本教団本部。1965年8月23日にこの地に移転した[67]
1965年
  • 1月28日 - 文鮮明が21年ぶりに来日した[68]。同日、南平台の日本本部教会を訪問。歓迎礼拝で崔奉春、崔元福、金永雲らが挨拶した[69]
  • 1月31日 - 文鮮明は東京の聖地を明治神宮内に決定した[70]
  • 2月10日 - 文鮮明は三笠宮崇仁親王と会談した[71]
  • 2月11日 - 文鮮明は夕刻、笹川良一と会食した[71]
  • 2月12日 - 文鮮明は羽田発の日航806便でアメリカのサンフランシスコに向かった[72]
  • 3月16日 - 崔奉春も渡米した[73]。この時期から文鮮明一家と幹部たちは、アメリカに宗教・政治的情宣活動の拠点を移したとされる[74]
  • 6月25日 - 文鮮明はドワイト・D・アイゼンハワー元大統領と会談した。
  • 8月23日 - 教団本部を渋谷区南平台町45番地から、同区松濤1丁目に移転した[67]
  • 12月10日 - リトルエンジェルス舞踏団が来日し日本テレビに出演。翌日初の日本公演[75]
1966年
  • 1月10日 - 韓国においても「原理研究会」を設立。
  • 4月15日 - 韓国・水沢里統一産業工場落成式。M16自動小銃の大量生産を開始。
  • 5月1日 - 教理解説書『原理講論』がソウルの聖火社から刊行される[76]。著者は劉孝元。
  • 韓国で機械製作会社「統一産業」を創設し、軍需産業に参入。代表理事は文鮮明の又従兄弟の文成均(ムン・ソンギュン)。
  • 統一教会は、機関誌『成約週報』第56号において、教団が「KCIAから有力な支持を受けている」ことを認めた[41]
1967年
  • 大学のキャンパスで伝道され信者になった学生や青年達が学業や職業を捨てて献身することで家庭問題が多発し、「親泣かせ原理運動」などと社会的な批判を浴びる。
  • 7月7日 - 朝日新聞「親泣かせの原理運動」報道で原理運動に参加した学生の学業放棄・家庭崩壊の被害が報じられる。日本で初めての統一教会の被害報道[77][78][79]
  • 7月15日 - 本栖湖畔の全国モーターボート競走会連合会(現・日本モーターボート競走会)の施設「水上スポーツセンター」で、文は、笹川良一や白井為雄(児玉誉士夫の代理)らと話し合った。会合は第1回「アジア反共連盟結成準備会」と名付けられ、16日朝にも話し合いが行われた[80][81][82]
  • 9月 - 教団に入信した子供たちを持つ親たちによって「原理運動対策父母の会」が結成される[83]。日本において特定教団の活動に反対する最初の活動。
  • 10月2日 - 『原理講論』の日本語訳版が光言社から刊行される[76][注 27]
  • 教団が明治神宮の境内の一角を「大聖地」に認定して、信者の早朝祈祷の場所に利用していたことが発覚し、物議を醸した。この聖地認定は教祖の文鮮明と教団幹部により一方的に決定され、神宮側には一切の相談がなかった。この事態に対して、神宮側は10月16日付けで立ち入り禁止の措置を講じた[84]
1968年